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行事のご報告

平成23年度 同窓会記念講演 松岡一夫先生

2012/5/7

日時 平成23年6月12日(日)
会場 茗渓会館2階

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(司会)
第二部の記念講演に進みたいと思います。本日は、二松学舎大学国際政治経済学部客員教授 松岡一夫先生においでいただきました。「高齢者医療と指圧師の役割」と題しましてお話を伺いたいと存じます。では先生、どうぞお進みくださいませ。

(松岡一夫氏)
こんにちは。ただいま紹介にあずかりました、松岡でございます。このたびはこのようなところにご招待いただきまして、どうもありがとうございました。

これからお話をしたいことは、ここに書かれているテーマでございますけれども、その前になぜ私がこういう話をするのかということについて、私の考え方、生き方についてちょっとお話をしていきたいと思います。そして現代のちょっと世相にも触れて、皆さん方のご理解を深めていただければ大変ありがたいなというふうに考えています。ただ、私は非常にストレートに物を話す人生をずっと送ってまいりましたので、ある人によっては、耳ざわりなことがあるかと思いますが、ぜひその辺は、ご理解を賜りたいというふうに思います。

私は、昭和10年生まれでして、父親はかわら職人をしておりました。そして小さいときからかわら屋に育ってきたものですから、それで父はそれなりに文盲であったんですけども、組合の組合長に祭りあげられたりなんかしながら、少人数ですけれども、職人を雇って、そこのトップについていたというそういう家庭に育ったんです。

そんなようなことで幼少時代を育ってきたんですが、そこで子供ながらに職人の世界に移行しちゃったんですが、そこですごく子供ながらに美しいなと思った光景があったのです。ご高承のように今でもそうですけれども、職人の世界というのはなかなか厳しい世界と同時に、非常に安い給料で働かせている、あるいは日給で月給なんかもらう世界じゃなかったんですね。でも、同僚がちょっと故障して病気したというふうになると、少しの金を出しあって、今でいうとカンパですね。カンパをして、そして代表者が見舞いに行くという、そういう風景にまま出会いました。

だから、私自身としては、社会もそうであろうというふうに考えてたんです。それで、だんだん大きくなって、進学することになったときに父に言われたことは、やはり社会を動かしているのは、働いている人がいて動いているんであって、必ずしも上の人が社会をつくったんではないんだと。そういう意味でおまえがもし進学していくならば、そういう学問をやってほしいというふうに父に言われていたものですから、私も職人の世界でそんなきれいな世界があるんだから、いいんじゃないかなというふうに思っておりました。

それで高校時代にもう一つ私の心の中に残っているのは、親友があるとき大学進学する時期になったときに、父親が倒産して大学に行けなくなってしまったんです。そのときに私なりに考えたのは、すごく矛盾を感じました。なんで能力のあるやつが大学に行けなくて、お金もちが大学に行けるのかなというふうなことを考えたことがあります。それがずっと頭の中に残っていました。

そして、学校に入って実は学校に残ったんですけれども、私は、そういうようなバックグラウンドで物事を見るようになってきておりましたので、かなり指導教授と激論を交わしました。最終的にドクターコースにいたんですが、そのときに指導教授の考え方を受け入れなければ合格させないということがありまして、それですごく議論したんです。

学問の世界というのは、真理の探求じゃないかと。そういうことがあり得るはずがないというふうに自分で考えておりましたので、それはおかしいじゃないかということで、結局つまみ出されてしまいました。野に下ったんです。野に下ったときに、一番初めに、結論的に言っておきますと、そういうことで自分の思想を通すということでずっと続いてきまして、現在、二松学舎に来るまでに12回転職しています。

この転職の理由も、あるものを見たときに、アメリカというのは実力主義でいくんだ。したがって転々とした人のほうがキャリアを積んだということで、社会的には、非常に厚遇されていたんです。だから、僕も若い野心があったものですから、じゃあ一応やってやろうじゃないかということで、12回転々として今日に至っているのですが、そういうことがありました。

そういうことでまず置かれたのは、金属会社に行ったときに、これも一つの問題点ですが、「団体交渉をしろ」と言われた。団体交渉というのは労働組合の人、特に金属労組という日本では非常に強い労働組合があったんです。それで団体交渉に出てきてちゃんとやって来いということで、そのときは青二才でしたので、さらに現場の労働者からは誹謗されました。青二才が何ができるんだという話がありまして、それも、じゃあということで、最後の切り札として出したのは、ちょうど先ほどいったように職人の息子をしていましたので、かわらかつぎをして負けたら労働組合のいうことも聞く。そのかわり勝ったらフィフティーフィフティーでおれの言うことも聞いてくれ、という話でやったんですが、幸い僕のほうが小さいときからやっていましたので、本当に紙一重、一枚の差で勝って、それから仲よくなって現在もその当時の執行委員長とは仲よく暮らしているんですけども、そういうことをやってきました。

それでもう一つは、野に下ったときに、どうせやるならば経営者になってやろうという考え方があったんです。したがって、職種は社長の側の職種をやりたいということで、大きな企業に行ったらば、歯車の一環になってしまうんじゃないか。だったら中小企業で働こうということで、中小企業をおこしました。それでずっとやってきて、その会社で学ぶものがなければやめてしまって、あるいは社長とよくけんかをしました。

実はそういう話はどこからどういうふうに漏れたか知りませんが、当時就職ジャーナルというリクルートから出している学生向きの雑誌があるんですが、その記者が来て、「何か松岡さん、そういう噂なんだけどそうなんですか」と言って記事を書いてくれたのがここにありますように、「可能性にかけて中小企業方向転転換」。

そのときにどういう面接をしたかというと、非常に若いんですが、偉そうなことを言ったんです。最後に中小企業というのは、社長でほとんど決まるわけですから、社長に会わせろということで、私はいつも言ったのは、こう言ってるんです。「私はイエスマンでありたくない。中小企業の社長は、従業員の創意と工夫を尊重し、独創性を発揮させなければ進歩がない。そのためには私自身、社長とはディスカッションをするし、反対意見を吐くわ、これを許してくれない人であれば、私は勤める意思はない。こんな人間でよければぜひ働きたい。ただし、私は社長と同格な立場でもって発言をするのであって、批判のための批判ではないということを理解していただきたい。」ということで、ビジネスマン時代は、ずっとこの思想を通してきました。

最後に行ったところは、上場会社2社なんです。その会社の社長に経営の何たるかということを教わりました。そのときに僕もばかだったから、両社長にはよく言ったんですが、「社長、変なやつがいるから…」変なやつというのは、変な重役。「あんな重役をやらせてどうなんですか」と言ったときに、ここは組合がありましたから、社長から「能力のないやつを重役にすると、2年間で委任教育だから、そのまま退職できる。組合がいるから、要するに人の首を切ることはできない」と言われたときに、僕はやっぱり目からうろこが落ちる思いがしました。

そういうようなことで非常にがめつく人生を送ってきたわけです。ほとんど私がビジネスマンのときに社長と同行するような場所にいましたので、いいニュースはだれでも社長に申し上げますけど、企業に対してバッドニュースは入ってこないんです。しかし、私は、その二人の社長にはかなりそういうことを言いました。特に最後の会社に行くときには、勤めていた会社の社長に、私は独立したいという話をしたんですが、「独立したい」と言ったら、「独立するんだったら、その社長のところに行って、もうちょっと社長業を勉強したほうがいいよ」ということでありまして、ちょっとトレードされたという考えもあったんですが、そういうことを私の人生としてやってきました。

そして、そのときにサラリーマン時代・ビジネスマン時代でも、先ほど言った、高校の同級生のことが浮かびました。ですから、自分がそういう地位についたときに社長にお願いして、私は賃金規定を変えたいんだということで、「どういうふうに変えるんだ」と言ったから、学歴をなくしたいということをいろいろ説明しました。ならよかろうという話になってやったのが、高校を出て就職した社員が4年たつと22歳で、大学卒業生のレベルになるんですね。

ですから、大学の初任給プラス千円というスタートで学歴をなくしました。その後数年たってからソニーが学歴をなくしたようですけれども、私はそのときにやって、非常に効果があったのは、優秀な社員が育ちまして、役員に何人か推薦してなりました。ただ、残念だったのは早過ぎたということと、もう一つは社会がなかなか受け入れてくれないんです。皆さんもご高承だと思いますが、やはり企業に入ると接待があります。相手の方は例えば役員になっている人はみんな大学を出ていると思うから、大学の話があるんです。

ところが、高校出て役員になった人たちは大学出てないもんですから、その話についていけないんです。残念ながら一人、僕がそういうことでやったときにどうしても大阪支店長はそれについていけないということで、やめてしまった後で、頑張れという話をしたんですけど、「あなたが役員で向こうが大企業の部長であろうと、役員なんだから頑張れ」と言ったんですけど、やっぱりそういう軋轢に負けてしまって、やめてしまいました。

それで今度は、飛びまして、大学の教授になるときに、大学の先輩が芝浦大の教授をやっていまして、ポストが空いたから来ないかというような話をくれたのです。そのときに私自身も学校では、学生のときに先生によくこういうことを言ったんです。「何で先生は、先生個人の意見を言えないんですか」と言ったときに、「私も初めて大学に行ってほされましたから」と言ったんですが、要するに指導教員の言うことをきかないと出世しないんです。自分の考えなんていうのは絶対認められない社会なんです。僕は学問の社会でそれはインチキだと今でも思っています。

ですから、そういう社会と知らないでいたために、えらい目にあったんですけれども、そういうことで二松学舎に入って行ったときに、あるいは芝浦工大に行くときに先輩の中では、要するに社会に役立つ学問を僕はしたい。これは皆さんから言えば学問じゃないかもしれないけれども、学問をしたいということで言ったらば、先輩は、多分世の中はそういうふうになっていくはずだからいいよということで、二松学舎の場合も違う先輩でありましたけども学校の先輩に印籠を渡されて、芝浦のほうもそういうことになりました。二松学舎に入ったときは専任で入りましたので、要するにサラリーマンをやらなきゃいけないということで、やめて専任になりました。

そこで学生に教えたことは、私は、今言った人生の考え方を持っている。ただし、私はそういうふうに言ったから自分の意見を言いますが、学生諸君は、例えば自民党支持の方は、自民党の土俵で解答を書くならばそれは100点です。共産党の土俵で書くならば100点。ただし、初めから自民党を書いておいて、結論を僕が共産党だとしたら、共産党だからといって共産党の理論を書けば、そこでは変説しているからその過程では減点するということで、そういう授業をしていたんです。

だから、意外と学生が、あいつはおもしろいと。自分の意見を書かせてくれるということで、かなり学生には評価が高かったようです。そんなようなことをしているときに、二松学舎で専任になって、芝浦と定年退職する70歳まではダブルでやっていたんです。特に専任の場合、もう一つお願いしたいことがあるということで言ったのは、芝浦では社会学をやっていまして、二松学舎大学では年も年、50代前半でしたので役員をやっていた関係があったんだと思いますが、理事長と学長に呼ばれて経営学をやってくれないかという話だったのです。

そこで一つ提案したのは、だったらば、やはり私は実践的にやりたいので学生全員に対してこういう講座を開いてくださいということで、「要するに中小企業であろうと大企業であろうと、幹部社員に学校に来ていただいて講義をしていただく、そういうコマをつくっていただけませんでしょうか」それを聞いた理事長と学長が、「前例がないからそれはちょっと無理です。ただし松岡先生が自分の授業の中でそういうことをすることに対しては結構です」という話になったんです。

ですから、まあしようがないなと。必ず「前例がない」というのは、新しい仕事すると言われるんですね。僕は、それが耳にたこができるぐらいみんな聞いていて、いつも反論するのは、「僕の考え方は新しいことをやるんだから前例はありません」と、いつもけ飛ばすんですけど、なかなか入れてくれる上司がいなかったんです。

ですけれども、妥協して自分の授業ではそうやって来ました。そうやってきたときに一つ宿題が出まして、「松岡は、授業をさぼって人を教壇に行かしている。けしからん」という話になって、それをご注進ということで学長に注進した馬鹿ヤロウがいたんです。それで僕がつかまりまして、僕の上司である学部長が呼ばれて、「あいつ首にしろ」と。あるいは「その抗議をやめさせろ」という話が学部長に言われたそうです。それから、学部長がおいでになって、「先生どうしますか」と言うから、「それはおかしいと思いますよ」というふうに僕は言ったんです。

そして、学部長もそのときは僕を応援してくれて、「理論の学問よりも実践の学問になっていくと思うから、私は松岡先生のやり方については賛同するけども、学長がどうしてもと言うから」ということだったんですが、そのことを学長に申し上げたら、今度は学長が条件を出したのは、「教授会全員で松岡が今やっていることを賛成するんだったら許す」というふうに出てきたんです。それで、また学部長に「どうしますか」って相談されたんです。

そのときに僕は思ったんですが、何でその就職するときにオーケーとったものが、学長が変わるとそうなるんだということを非常に変に感じました。それと同時に学問の自由って何だろうか。学長が全部コントロールするはずがないのです。やはり学問の自由というのはあるはずだというふうに私は考えましたので、学部長に申し上げたのは、「もし、教授会で一人でも二人でも反対するようなことがあれば、そんな学校にはいたくない。だからどうぞやってください。そんなばかなやつと一緒に仕事をしてもしようがない」というふうに僕ははっきり言いました。

そうしましたら、何と全員一致で賛成が出たんです。これは何だというふうに怒りました。そんなことで二松学舎に入ったときには、会社員時代かなり管理部門をずっと歩いてきましたから、特に人事を中心に歩いてきましたから、就職担当をやってくれって頼まれたんです。それは、私が定年退職になるまでずっと就職担当をしていました。そのときには昼夜決行で一生懸命やりましたけれども、これもおもしろいんです。

僕が芝浦工大で非常勤をやっているときに同じ同僚がいて、二松学舎に行ったら彼がいたんです。彼は助教授でそのとき入ってきて、ところが僕は何だか知らないが専任講師だったんです。彼に会ったとき、「松岡先生が講師で何でおれが助教授」って言ったから、「そんなこと知るか」、でも心では、こいついつか抜いてやろうと僕は思っていました。実力で何とかこいつを抜いてやろうというふうに思いました。

そんなこともありましたのですけれども、とにかく学校でも言いたいことを言って、かなり改善もしました。給料改善もしましたし、もっとすごいことは、本当は教職員労働組合というのをつくりたかったんです。どこの大学も労働組合を持っていたんです。持っていない大学もあります。私は、将来的にはそういうものは必要だというふうに考えているものですから、そういう考えをずっと持っていて、1回同僚を集めてそう言ったときに、同僚が「ノーだ」と言ったんで、じゃあもう皆さんがノーだったらやってもしようがないからやめようと思ったら、だんだん時代が変わってきまして、かなり労使協調論が出て、私は、労働組合というのは、もともと第三系であるわけですが、その中に基本的には労使協調であるべきだというのが私の頭にあったんです。

ですから、理事長と学長をくどきました。そしたらば、「勘弁してくれ。職員を巻き込まないでくれ」と言われた。本当は教職員と労を一緒にしたいというのが僕の夢だったんですが、教員についてだけは上司からオーケーをとりました。そういうことで、労使協調でいかないとやっぱり教員の意見も受け入れられないんじゃないかというようなことがあるということでやっています。

そんなようなことをやっていきましたので、自分自身は非常に何ていうか、恵まれた上司に助けられたという感じがしています。これもやはり、無学の父から教わったことであって、いろいろな人とつき合うときにまず言われたことは、「人が嫌がる仕事はおまえが受けて立ってやれ。必ず勉強になる」と言われました。それから、嫌な人とつき合うというのも勉強になるというふうに教えられたんです。ですから、そんなことでいろいろと父の遺言に添ってやってきました。

したがって、今のこの2つが、特に医療問題ですけども、この問題については、私は賛成しませんので、反対意見として出します。結論的に言うと、前政権が消費税を上げることができなかったから介護保険をやったんだというのが結論なんですけれども、後で内容的にはお話をします。そういうことです。

そういうことを言いますけれども、ぜひその辺はさっき言った私の生い立ちをご理解いただきたいと思います。したがって、今回終身資格の客員教授と言われたときに同僚がびっくりしたんです。「松岡先生、あれだけ上に反論してたけれども、何でそんな資格が取れたんですか」と言うから、僕が胸を張って言ったのは、「決して学校にマイナスになることは言ってない」。皆さん方は、ただ唯々諾々として与えられた仕事をやっているけれども、世の中がどんどんどんどん変わっていくのに、世の中についていけなきゃいけないから、私は私なりに進言して、ほとんど自分でその仕事を請け負いました。かなり改革をいろいろな意味でしました。

そういうことで特に就職についてはずっとやって、今も時々アドバイザーとして呼ばれて、「どうしたらいいか」と言われるんですけども、それの功績が非常に強かったですね。本当にマイナーな学校で、私は、「二松学舎はマイナーだ」と言って、かわった学長に怒られたんです。「松岡さん、マイナーという言葉を使わないでくれ」って言われたんですが、私が企業を歩いたときに名刺を出すと、二松学舎大学と読める人事担当の人は余りいなかったんです。3人に1人ぐらいしかいないです。

そういう意識の中であって、じゃあどういうふうに意識改革するかということが問題だと僕は思ったので、学生にははっきり言いました。「そういうことでだれでも勝てるんだよ」ということは、やはり僕が出したのは、例えば田中角栄です。あるいは松下幸之助。「彼らは、大学を出てないじゃないか。でもちゃんと国を牛耳り、企業を支配する代表的なものである。そうしたら君たちは、どんなちゃちな学校であろうと恵まれているんだ」ということで叱咤激励していきました。

それともう一つ、私のノウハウは、自分が人事で培った知識として、やはり上場会社であるといえども、学生というのは欲張りですから、二社三社かけ持ちでダブルで合格をとったんです。そうすると4月に入社式をやると必ず歯っ欠けが出てくるんです。そうすると現場から苦情が来るわけです、人事に。「何だ」と。「社員が来ない。」ということで非常にそういう苦労をしました。

だから、それを逆手にとって、二松学舎の学生については、僕は推薦した場合は絶対に二足のわらじを履かないように学生を指導しました。そのときにも学校から批判が出ました。それは強制で自由を束縛するものだと言って、教授会が吊し上げを食いましたけど、「じゃあおまえらやってみろ」と僕はたんかを切りました。そんなことでもしなければ絶対に就職なんか勝ちとることはできない。それはもうそうですね。やはり各社長さんが、二松学舎の学生は内定を取ったら必ず逃げないということで、社長さんたちが契約をしてくれて、最後まで少なくともマイナーであった二松学舎80%以上の就職率を持っていた。そのための客員教授という終身資格をいただいたんではないかと今僕はそう思っています。

そういうことですので、ぜひ皆さん方にこれからお話しすることについても言いたいことはあるかと思いますが、ご勘弁いただきたい。最近ちょっといい話があったので、今まで僕の話をしましたが、実はこれは私ごとなんですが、私が横浜駅のトイレでセカンドバッグを忘れたんです。そのセカンドバッグの中に入っていたのは、少々の現金とそれから1年の生活費が入っていた銀行通帳と印鑑が入っていたんです。あと本が入っていたんです。

そうであったものですからすごく慌てて、トイレを出て5分ごろで気がついてトイレに行ったんです。ですけど残念ながらセカンドバッグはなかった。それでもうしようがないですから、一番大切なことは銀行ですから、とにかく銀行にはせ参じてストップするような処置をとり、警察に届け出を出して、所用を夕方済ませて来たんですが、ちょっと待てよ。万が一届け出てくれている人がいるかなという考え方があったものですから、ちょうどトイレの近い改札口のJRの職員に、「実は届け物はありませんか」という話をして、こうこうこういう話ですとしたらば、そこでパソコンを開いてくれたんです。

そしたら、担当の方が、「銀行通帳の入っているセカンドバッグですか」と言われたので、「はい、そうです」と。「じゃあ南口のほうですから、そちらに行ってください。そちらに多分あると思います」ということで行きました。社会の常識としては、まず現金が入っていた落とし物というのは、出た試しがないんです。まず99%出ない。僕もそう思っていたんで、寄るまいと思ったんですが、何か虫が知らせたのか知らんけど、まあなくてもともとだからしようがないと行ったんですが、本当に手つかずにちゃんとありました。

それを見たときにすごく感激をしました。でも、感激している場合じゃないと思って、「届け人の住所と名前を教えてください」というふうに話をしたら、遺失物の書類を持ってきて、実はこの人は、「こんなことは普通のことです。そんなに褒められることでもないですから、私は名乗るほどの人ではありませんから名乗りません」と言って帰ったということで、結局わからずに私は帰ってきたんです。

そのことを友達に話したんです。「おまえはいつも新聞投稿をしているから、新聞投稿をしたらどうか」という話が出たんで、私はこの社会についてはかなりインチキがありましたので新聞投稿をしてきました。しかし、全部批判的なことですので、批判的であるけれども、私は事実だと思ったんですが、批判的なことは全部却下されているんです。僕は3冊本を書いたのですが、最後の本を書くときにどうしても自分の意見を言いたいと。2冊の本は、一般的に偉い先生の学説した、書かないようなありきたりの本だったんですが、最後にはどうしても自分の本を書きたいと思ったので、自分の意見を言う本を書いたのが、この、「今社会で生きる社会学」という本ですが、これを出しました。

このときもすごいもめたんです。原稿を出して、本当に数十社出版社がありましたけども、こんな本は出せないと。要するに普通の本ですと戦略の学説が書いてあるんです。あるいは「引用、だれそれが書いた何ページ」。だけど、私はそんなのはおかしいというふうに自分で考えたんです。参考文献で何が悪いんだというふうに考えたことと、自分の意見を言いたいと。そのときにさっきの新聞の話のここに書いたんですが、僕はずっと新聞投稿をしていていろいろなものをやっていたときに、新聞のいいかげんなところということでこれは書いたんです。

新聞で投稿したときに2つの規則があるんです。一つは、二重投稿は厳禁だと。つまり同じ原稿を二つ以上の新聞社に出すなということ。もう一つは、加筆訂正を認めろと。要するに新聞社が勝手に加筆訂正する。これを認めた人だけが掲載されるということが条件なんです。そこで僕はまた好奇心が旺盛だったものですから、ようし一丁やってやろうと。どういうことなんだと。二重投稿をどうしてしてはいけないのかということが知りたかったんです。同じ投書を出したっていいんじゃないかと。とってくれるか、とってくれないかは新聞社の自由だと思ったんですが、見事に僕の策略が当たりまして、東京新聞にはほとんど僕は封書でいつも出すので封書の原稿どおりなんです。

ところが、読売新聞にここに載っているんですが、読売新聞に載ったのはどういうことかというと、封書で書いたにもかかわらず、ここに載ってちゃんと書いてあります。はがきコーナーという欄で、ちょこちょこっと書いてあります。ああ、なるほどなと。それでわかったのは、実は読者欄というふうになっていますけども、必ずしも読者の意見ではないです。やはりその新聞社の思想にあった意見を読者欄として載せるんだなということが、僕はわかったものですから、やはり新聞というのは少なくとも右と左を読んだほうがいいよということで、学生には読ませております。

それから、先ほどちょっとお話しするのを落としましたが、私は、偶然に二松学舎に入ったときに、友人からある本を送ってきたんです。「僕は、先ほど言ったように実践学をやる。おまえさ、二松学はおまえの考え方に本当によくぴったりだぞ」と言われたのがありました。それはどういうことかというと、二松学舎の創立者の恩師である山田方谷という地方の藩主のブレーンだったんです。その人が書いている本の中に、「学問は末永く机上のものであってはならない。知ることは行うことのためである。世の中に役に立つ実践学であって初めて意義がある。知っていながら行わないことは、まだ知らないことに等しい」。こういうふうに書いてあります。

それともう一つは、私がやっぱり間違いないなと、実践学・役に立つ学問をやりたいなというときに本屋で持って拾ったのは、今、ソフトボールのマネジャーをやった女子学生がドラッカーの「マネジメント」という経営学という本を読んだのが、一時ブームになりました。その前に私は、そのドラッカーの本を見つけて読んだときに、ドラッカーというのはさすがだなと思ったのは、こういうふうに書いてあるんです。私の考えと全く一緒だと思っているんですが、これもオーソリーや何なりなのですが、「知識あるものは、常に理解されるように努力する責任がある。資料とは、専門家を理解するために努力するべきであるとしたり、専門家はごく少数の専門家同士と話ができれば十分であるなどということは、野卑な傲慢である。彼らの知識を学識から卑しむべき建学におとしめるものである」と、こういう句があるんです。

私はまさにそうだと思うんです。偉そうに学者は、ぐうたらな本を書いています。でも、僕が読んでもわからないのはいっぱいあるわけです。何であんなにわかんないような本を書いて売れるのかな。あるいはそれを鼓舞するのかと思ったのですが、こういうことがあって、この二つのことを私は最後にここに書いてあるのですが、私ほど二松学舎の創立者の精神を実行した人はいないと思って、今でも自負しているんですが、これもそういうことだというふうに自分自身では考えております。

先ほど言ったように忘れ物についてはそういうことであちこちに飛びますが、こんな乱れた社会で本当に奇特な人がいたなということで、本当に私はうれしく思っています。もし皆さん方に、多分横浜近辺の方に会って、そういう人がいたらぜひ私に教えていただいて、その人にちゃんとあいさつをしたいなと思います。それで僕はさっき言ったように、批判的なことを投書していますので、僕が今こういう美談を投書したら、多分載ると思います。世の中殺伐としていますから。「載るかもしれないし、載らないかもしれない」って言ったとき、「どっちだ」と言われた友達に会ったとき、僕は載らないととったんです。多分松岡はもう今まで批判ばっかりしているから、この際美談をつくり出してやれば、新聞に載るんじゃないかと、そういうふうに考えてあいつ書いたんじゃないかというふうに記者は考えるだろうと思うから、僕は、この美談は投書はしないというふうに言ったんです。果たして皆さんはどういうふうにお考えなるでしょうかということです。

それで、次はもう一つ社会の問題でお話したいのは、私自身もさっき言ったように、原子炉については、まず非常に不可解に思ったことは、3月11日に事故を起こしまして、そのときに皆さんご高承のように、アメリカの調査官がいち早く数人来るというので飛行機に乗ったというニュースが出ました。しかし、その後音沙汰がなかったのです。結局、その人たちは日本の政府と東電がグルになって追い返したわけです。どうして追い返したのかということを推測したのは、これも新聞投稿をしている中に書いています。東電は、廃炉の高をくくっていたんです。あれを修復して再利用しようということなので、他人に入られたら困るということが先に立った。それで、政府もわかりませんから、素人ですから、政府を説得したのです。

ところが、なぜアメリカはすぐに来たかというと、アメリカは事故を起こしたとき、すぐに廃炉手続をした。私は、そういうことを身にしみて覚えていましたので、廃炉をして当たり前なのに、なんで再利用するのかと。これは長引くぞと初めから思っていました。そういうことでいたときに、テレビを回しましたら、ある原子力専門の先生とキャスターがインタビューしている映像が出ました。「非常に人が悲しんでいるときに土足であがってきて、ああでもない、こうでもないとやって、もうちょっとあの変はちゃんとしてほしい」そういうことでその先生がいわゆる原子力の怖さというのを知っている先生なんです。

それで、そのために一生懸命運動をしていて、彼は京都大学で今40数年、助手に甘んじているわけです。だから、僕はあえて今甘んじてというのは、僕を見て甘んじているという、僕もそういう野心がありましたので客員教授になったんですけれども、それで今恩返しをしようと思ってこういう講演をしているんですが、そのときにキャスターは何て言ったかというと、「先生、先生と同期の人はみんな教授になっておられるんじゃないんですか。あるいは要職についておられるんじゃないですか。そのことについてどう思いますか」と言って、全く失礼な質問をしたんです。僕は、そのキャスターを本当に、こいつ何考えているかなと思います。しかし、また見事にその先生が答えたために、また感服しました。もし、私が東大であれば、当然職をなくしているでしょう。しかし、幸いにも京都大学という自由の学園であったので、准教授として残っています。「だから、私は原子力の怖さについては、一生をかけて、科学者の責任として訴え続けるんです。」こういうふうにやるだけでも、本当に頭が下がりました。私は残念ながらそこまで勇気がありませんでしたので、友達に言わせるとうまく世の中を渡ったなと。僕は、「肉体を売っても心は売らなくていい」と冗談半分で言っていましたけど、友達に言わせるとそういうことをよく言われました。

でも、この先生はそうじゃなくて、肉体も心も売らないで、そしてずっとやってきた。そのときにちょっと言われたので、実は、僕は本屋へ行って頼みました。「原発のウソ」という本があります。小出裕章さんという京大の先生です。ここで真実を訴えているんです。

もう一つ「おかしい」と言って新聞投稿で却下されたのは、皆さんご存じでしょうか。国会答弁で清水社長が、企業であればああいうふうに事故を起こしたらすぐお金を、見舞金としてさっと出しますよね。あるいは身ぐるみはがされて、企業が倒産することもある。

ところが、彼らは自分たちの責任をさておいて国会答弁で清水社長は、「国が賠償すべきだ」と堂々と言ったんです。僕それ見たときすごくおかしいので、すぐ新聞投稿しました。企業は、自分が事故を起こした企業の責任で全部解決しているんです。東電は、何でそれを国に訴えるんだと。裏があるぞと僕は思った。

そしたら、この本を買ったときに、そういう真実があらわれているんです。だから、読ませていただきました。これもアメリカのまねをしたそうなんですけど、そんなことはさておいて、こういうふうに書いてあるんです。よろしいでしょうか。「電力会社の存在については、すべて賠償しなくても済むようになっている」。どういう法律があるかというと、それはこういう法律があるということです。原子力損害賠償法というのがあるんだそうです。その中に書かれています。あれは、賠償条件の賠償額の上限は10年に1回見直すのだそうですが、今回は2009年に1,200億円までというふうに書いてあるんです。それが一つ。それよりも何よりも清水さんが、国に賠償しろと言ったのはどういう規定があるかと言ったときに出てるのは、免責条項というのがあるんです。これは予想外、あるいはすごく大きな、巨大な損害が生じた場合は、全額国が負担するという規定になっています。

だから、清水さんは、なぜ言ったかということは言わなかったですが、裏に見るとこういうことなんです。これをなぜマスメディアが発表しないか。こういうことだと。だから、今議員さんたちもいいかげんなことばかりやっていますけども、自分の腹は痛みませんよね。全部我々の税金にかかわってくるわけです。何でこんなことをちんたらちんたらやっているのと私は思います。この先生はそういうことでいろいろ真実を書いています。

だから、私はこの先生の本を今10冊以上買いました。僕も教員で教員の干された姿というのはよく知っていますので、印税を稼いでいただければありがたいなと思って友達に配ったんですが、そういうことが堂々と行われている。しかも、もっと定年のことも書いてます。電力の安定供給に支障が生じる場合は、国が補償を肩がわりできる。すごい法律ですよね。何でこんな法律が国民に知らされていないのかというのが、私は非常に激怒する。だから、なるほど僕の言った新聞投稿は、みんなはじき飛ばされるのは当たり前だな。そんなのを載せたら、国民が暴れるかもしれませんよね。そういうふうに思う。

ところが偶然なんですが、こういう先生方がある雑誌に堂々と書いていただく。この先生はやっぱり清廉潔白の先生なんですね。どういう先生かというと、最近のノーベル受賞者、根岸英一先生がある雑誌に書いています。何ていうタイトルで書いているか見てください。東大の先生は、買収されている。これは事実です。だから、今ごろになってメルトダウンを発表しますけれども、そういうことは全部隠されているんです。

あるいは、これは若くして亡くなったんですが、若い学者で高木仁三郎という先生がいてがんで亡くなった。この人は、原子力の怖さを若いときにずっと訴え続けた先生です。ところがここに書いてあるように、電力会社が「口止め料で3億円出すから、先生」というような話があったそうです。ところが、この先生は、科学者の両親に始めていうことで蹴飛ばしたというのがいまになって出てきて、例の浜岡原発が菅総理一人でやったと言っていますけど、菅総理がとめましたね。その時もこの先生はそれを予言していたんです。だめですよと。だから、これはスクープとして出てきたんです。こういうことがなされている現実とです。

しかも、今度は原子力委員、正式なことを言うと、泊原発閉鎖員の人が、やはり「記録を改ざんしろ」と上に命じられたという事実がここに報じられています。この人は、結局定年退職したときに、まじめな検査員で、ここがちょっと機械がおかしいから、直して正常にしてやったという過程を全部書いて報告をしたんです。そしたら、上司が「直したことは書くな。要するに正常に稼働していると書け」ということで、この人はがんとして書かなかった。そのために定年退職したら、同僚はみんな再雇用されたけど、彼はシャットアウトされたということが、「海猿」で書かれています。こういうことが実際起こっているんです。

でも、マスメディアは何もそこについては公表しないというのが、世の中の流れではないかというふうに思います。ですから私は残された人生、こういうことを講演しながら皆さん方に訴えていくには、まずどうしたらいいかということですね。やっぱり真実を国民は知りたいわけですから、いろいろなことでやらなければいけないという意味です。

ですから、例えば私が投書したときにちょっと社会的な反響があったことを一つ申し上げますと、例の小沢さん事件で警察審査会というのをご存じでしょうか。これは、我々の素人の方が11人集まって、そして検察庁の専門家の人が不起訴にしたのも、起訴にできるという、すごく重大な組織なんです。それで今回小沢さんが、パクられたんですが、第1回の審査結果の発表があったときに、僕が新聞投稿したときに、これは東京新聞が取り上げてくれたんです。

どういうことかいうと、まず一つおかしいと思ったのは、なぜ素人集団である審査会が、全くのプロで、本当にプロ中のプロである人が、疑わしきは罰せずということでやったものが、なぜ起訴になるのか。しかも、この審査会の資料は、検察が出したデータ以上のものは出ていないんです。全く同じデータでもってそういう解釈なんです。であろうという、つまり疑わしいということで11人全員が賛成したわけです。疑わしいから起訴相当である。皆さん、きょうも会議があったようです。会議があったときに、反対意見を必ず言いますよね。どうです。全員一致なんて絶対あり得ません。だから、私はその疑問を呈したのです。

まず一つは、なぜ素人集団がプロがやったのを覆せる権利があるのか。また、そういうものがいつできたのかということです。それから、全員なんていうのはあり得ないと思ったらば、数日したらある雑誌でなるほどというふうに思いました。それは、こういうためにあるんです。皆さんどうする?

「我々が11人の中に1人入って裁判をやったって、資料を読むだけでも何カ月もかかりますよね。それが1カ月足らずで審査会をやって結論出るなんておかしい」と言ったら、こういうふうになっているんです。審査会で大きな役割を果たすのが、審査補助員という弁護士であると。つまり、一人弁護士がいるんです。したがって、ここでこう書いているのは、「前回、最初の起訴相当の議決では、弁護士の使用者責任分は全員一致の方向性を定める」。つまり、素人はわかりませんから、補助員といったって弁護士です。ですから、弁護士さんが、「おまえたち違うよ」と言ったら従わなければいけないじゃないですか。

そんなことの審査会があってどうなんだということで私は、東京新聞が幸い取り上げてくれたので、私がする。そしたら、それが少なくなったときに、私の疑問について本当に専門家が、これは読売新聞ですけれども、いろいろなことを言っていました。11人をどういう格好で選任しているのか。選任の方法もあるじゃないか。あるいはそこに弁護士を一人決めるんだけれども、その弁護士の決め方はどうなっているか。そういうものが全く規定されていないのがおかしいというのが、僕が書いたからその後出てきたかどうかはわかりません。僕は勝手に解釈しているのは、そういう世論が出ていく。しかし、その結果は何も出てきていませんから。

こういうことが最近やられてきているということに対して、私は、非常に社会が危険を帯びてきているなというふうに思うんです。ですからぜひ皆さん方にその辺のところは知っていただいて、これからどういう対処するかというのはそれぞれお考えいただきたいなというふうに思います。

そこでですね、ちょっと長くなりましたが本論に入りますが、先ほど言ったように、結論を言いましたので、ちょっと具体的にこれも話をしていったほうが、皆さん方に、なぜ僕がそういう話をするかということについてお話をしていきたいと思います。

まず、タイコクゲンです。タイコクゲンの設立の目的。一番初め設立の目的はどういうことだったかということです。これは、要するに簡単に言うと、介護の社会化ということが建前の国。介護の社会化というのはどういうことかというと、介護事業は国がちゃんとやりますよというのが、介護の本当の理由だったわけです。それは何かというと、介護保険法は24条の4項の中でこういうふうに書いてあるんです。「保険給付の内容及び水準は、その有する能力に応じて、自立した日常生活を営むことができるように配慮しなければならない」。つまり、これは当たり前のことで常識のことですね。介護に適用された病人は、やっぱりちゃんと治って生活できるようにする。当たり前のことですね。病気を治さないと、医者が。これが目的なんです。しかも、それをちゃんと社会全体で支える仕組みというのは、社会全体でできませんから、国が支えるということです。

そうしてこれがなぜ、私が介護の社会化の実現の中で、要するに強制活動でインチキ活動をしていやという実績を言いますと、私がこの介護保険の講習会があったんです。講習会というよりも先生が来て、こんないい介護保険ですよというPRに来た先生がいて、とにかく市民の方は集まってくださいと。僕も興味がありました。特に興味があったときには、健康保険の問題と介護保険の問題がどういうふうにかみ合っているかということで、10項目ぐらいメモして行ったんです。

そしたら、東海大学の先生が講師でお話をしましたので、みんな介護保険だったらご老人ですよね。ご老人が集まってきました。しかし、僕しか質問する人が余りいなかったんですが、質問をしたときに、全部答えられないんです。そういうことでまたこれも先に結論を言う。終わってからその先生が、「ちょっとお話があります」と言ったときに、総裁がおっしゃるとおりです。でもそういうことを言ったら、私はここで勝手にお話ができませんので、大変失礼いたしましたということです。初めからこんなことをやろうというふうに政府は考えている。じゃあ、どんなことで介護保険をやりだしたか。

皆さん、老人福祉制度というのがありますね。まず、それを金がかかるから廃止して、公費の節約をまずしたわけです。次に、健康保険。財政が苦しくなりましたね。その財政の建て直しに何とかしなきゃいけないといって考えたのは、東大法学部出身の役人の知恵です。そこでもう一つ、今出てきた中で、こういうことがありました。僕が教壇に立っているうちに若い学生から、「先生、偉そうなことを言うな。先生の厚生年金は、おれが払ってるんだぞ」と言われたんです。これにはちょっとまいりました。

でも、その前に僕は幸いに、やはりマスメディアでインチキばっかと言ってる。そういう風潮が、一般的になっていました。そのど真ん中のときに投書したのが、「違うよ」という投書です。それはどういうことかというと、2004年2月22日にやはり東京新聞は、僕をほとんどレギュラー的にとってくれていたんです。ほかの新聞はほとんどシャットアウトされました。東京新聞に書いたときに、ちょうど高校のクラス会があったんです。それでどうなのかという話をしたんで、私が先ほど言ったように学校を追われて、ビジネスマンになったときに、総務の女の子に「こんな厚生年金の保険料は高い、何するの?」っていう話をしたんです。

そうしたときに彼女が、「やあそれは、松岡さん違います。松岡さんが定年退職したときに、やはりゆっくりと暮らせるようなことで、この保険料は今使わないですが、ちゃんと国が厚く積み立てをしておいて、そして松岡さんが定年退職したときにこのお金プラス国家補助の税金が加味して、生活が豊かになるんですから、ちゃんと払ってくださいよ」と、こういうふうに言われたということをクラス会で話したんです。

そうしてずっとやってきたときに、だんだんだんだんぼろが出てきて、あのとき当時の厚生労働大臣である枡添さんが、保険庁のトップの退職金をさかのぼって払い戻してもらうという、大げさな口をたたきました。しかし、役人に見透かされました。そのとき僕は学生に言ったんです。「おまえさ、そんなこと言うけど、だれがそんなこと言った」と言ったときに、枡添さんの話が出ました。言っているじゃないですか。

担当大臣が言っているんですから、「先生うそですよ」と言ったから、僕はその翌週にこれを持ってきて、実際を話しました。どういうところに使われたか。これもずっと出ていますけども、当時の厚労省の職員は、厚生年金会館などの箱物をいっぱいつくりましたね。失業保険もそうですけど、その保険料を全部使って箱物をつくって、赤字を全部たるの中に流したんです。

それで彼らの要するに時間給の考え方は、どんどんお金が入ってくるのだから、少々使ってもいい。当時バブル時代ですから。もうかるところもあったんでしょうけれども、実質的にはつくったものが赤字になったら垂れ流しになったので。そういうことでつかんでいる事実を報告されていなかったんです。そこを厚労省がすっぱ抜いてやって、今回は出てきたら、今度は売却にしろというような話になっていて、この売却損をどうするんだということを書いています。

そのために建設費を回収して、売却損を出す。改修なんかできるわけがない。じゃあ売値はどうなるかというと、当時最大9,000億円の損失が出る。そこで僕は言っているのは、「我々が血の出る思いの拠出金が、いとも簡単に許可なく使われて、今また無造作に売却損を出す人々に良心があるんだろうか。その一番つけを弱い国民に押しつけるとはけしからん」と書いています。「それであれば、まず原点に返って、責任の所在を明確にして、それらを国民に公表してから堂々と売れ」と書いたら投書を載せてくれたんです。そうじゃありませんか、皆さんこんなこと知らされていないから。

これがまた、今度は家族関係に起こっています。今、おじいちゃん、おばあちゃんがばかにされて、年寄りをばかにしている世界になりました。言えないですよ。そんなこと知っている人は、余り年寄りにいませんから。僕は、老人会のこういう講演会に行って、こういう話を高齢者医療の中で言っています。「皆さん、胸を張って反発してください。これは、当時の枡添大臣をはじめ、彼らがみんな嘘をついている。はっきり言ったほうがいいです。そうじゃないとやっぱり親子関係は崩壊しますよ」と僕ははっきり言っています。こういうことが堂々とまかり通るというのはおかしいです。

そういうことで、この介護保険は、まずこの二つ。老人福祉制度の撤廃、健康保険の財政の見直し、それがどこに出てきているかというと、介護保険でありながら、1等級から5等級まで段階が決まっています。5等級というのは、一番重い患者だそうです。しかし、医療費の上限が決まっているんです。それで、この上限より出たら全部自己費です。100%。そんな保険がありますかって言いたいです。

さっき言ったでしょ。ちゃんと介護保険法で自立できるまで治すよと言っているにもかかわらず、ここから上の治療は、自分で負担しろ。あるいはもっと過酷なのは、小泉さんがやった過酷な例を言えば、リハビリは、180日で治るリハビリなんてそんなに多くありませんよね。180日でゼロということはどういうことかというんです。こんな現実離れした無法な法律をつくる役人はおかしい。

だから、私はあえていうのは、学問の自由であるかもしれないけれども、空理空論を言うなと。もっと学者や知識ある人は、ドラッカーが言っているように、ちゃんと普遍的にわかるように国民に教える義務があるじゃないか。僕はそう思っています。だからみんなへんてこに曲がっていって、社会がだんだん曲がって、人間関係も悪くなる。

そこで、一番僕が言いたいのは、先ほど申し上げたように、介護保険と健康保険の違いはどうですか。はっきり東海大学の先生に言ったのは、「なぜ健康保険が、今、現実に使われているのに、こっからこっちの病気の範囲は、介護保険に移すんですか。移す理由は、何もありませんでしょう。何で健康保険でやっていたものを介護保険をつくってやるのか。それを答えてくれ」と僕はさんざん言ったんです。そうじゃありませんか。

当時、健康保険で全部できたわけです。それがもちろんできない分野は、今言ったみたいに何て言うか、差額ベッドと言うのですか、1000万円かかるとか何とかいうのがありますよね。そういうのはなかなか公費の負担の中からということはあります。そういうのはありますけれども、ほとんどは従来の健康保険でできたものが、なぜこっちに棚上げされて介護保険なのか。答えられないのは当たり前です。そういうこと。

それからもう一つ。これが一番大きなギャップですから、わかりやすいですからそれを。今度は、健康保険の適用者は、健康保険証を持っていけば、当日ちゃんと受診できますよね。だから、どんなに苦しんだ人でも、すぐに聴診器を当ててもらえるわけです。介護保険を適用する人は、重症ですよね。それなのにそれができない。どういうことなのか。これが役所仕事だと。

つまり、要介護認定の申請の問題。つまり、介護保険を使いたいですよという手続きをどういうふうにするかということ。一応本人申請です。じゃあ、病弱の介護を適用してもらいたい、どうしたらいいの。原則的には、本人申請ですから、できないわけです。そうすると委任状とか、滑った、転んだとかいろいろあります。それと同時に一応必要なのは、医師の診断書を添えて申請しなさいということです。じゃあ医師にかかっている人しかそれはできないじゃないか。わざわざ申請するためにまず近くのお医者さんに行って診断書をもらう。その労力たるや、何たるか。

そして次です。申請するのに、きょうあす要るのに30日間かかります。1カ月ですよ。カ月で出ればいいです。ところが、これはパネルの例ですけれども、私の姉で介護保険を骨折して適用したことがあるんです。介護保険を始めて少しのときでした。ところが、今度は介護保険を許可されたんです。許可されて、適用しました。この有効期間がたった6カ月です。6カ月更新なんです。それで申請して、認可されるまでに1カ月かかります。ちゃんとやればですよ。ちゃんとやれば1カ月かかるんですが、そこには抜け穴がありました。

ただし、延期することもあるということで、僕は、これの書類を持ってきました。こういうインチキを役人はするんです。介護保険要介護認定、要支援認定と延期通知書。こういうのを出すんです。逆に言えば、30日たってきて、ああやばいと思った。3月30日にあなたが介護保険法に基づいて申請された要介護認定・要支援認定について、次の理由により延期することとなりましたのでお知らせします。延期理由は、何が書いてありますか。主治医の意見書の入手に日数を要しているため。

つまり、姉がかかっている先生が診断書を書いてくれないから、延期しますよと言って1カ月延ばされた。ところが、私はこの姉のことに全部立ち会っていますからわかるんです。姉は半月板損傷で病院に担ぎ込まれたんです。そのときに「そういう結果が出たので入院させてください」と言ったときに、こんな程度で入院できません、ということで追い返されたんです。それでコネを使って東京の病院に入院させてもらったんです。その外科部長と僕の知り合いの医者が仲がよかったものですから、非常に好意でやってくれて、その外科部長はどちらかというと庶民的な人で、そんなに診断書を長くする先生じゃないんです。すぐに書いてくれる先生なんです。

だから、何かあったときにはすぐにということで、姉もかなり頼りにして、すぐそれは待っててください。あとはナースが持ってきて、「これ持っていきなさい、あれ持って行きなさい」とやってくれる先生ですから、1カ月も延ばすはずはないんです。僕もしゃくにさわったのでこれが来たときに、先生のところに電話しました。先生もびっくりしていました。「もう松岡さんに言われたから、翌日にちゃんと出したよ」。これがこういう体たらくです。

こんなこと僕は、関心があったら突っ込んでどんどんどんどんやって、こういうときに話したいなと思って持ってきていますけど、普通の人は、やりませんよね。わかんないよね。これが、僕は外科だったから、姉にも言ったんですけど、外科が手術をすれば、大体わかりますよね。だから、介護の程度がだんだんよくなるから、やっぱり安くなるからいいですよ。しかし、どんどん悪くなる人はどうするんですかということなんですね。悪くなるときは、例えば介護4であって介護6になって、悪くなっていく。

ところが、この申請が1カ月すると、つまり通例にしたら2カ月遅れてしまうわけですね。2カ月遅れたときには、前の要介護のことしか使えないわけです。姉に5だという認定がないから。そうするとそこの分だけは自腹きらないといけない。あるいはお金がなかったらば、介護4の治療しか受けられないということ。こういう矛盾が出てくる。あるいは姉の場合は、今度は逆ざやが出てくるんです。

だから、僕は姉に「やめろ」と言ったんです。「こんなのおかしいよ。すぐにちゃんと6カ月切れるときに、ちゃんと次のが1段上だよ」となればいいです。だから姉は外科ですから治ってきましたので、僕が予想したように介護1です。だから、過払いしないで済んだのです。「もう払うな」と言って、払わせない。こういうものはまだまだいっぱいあるんですよ。だから、僕はおかしいというふうに思った。だったら、もっと正々堂々と議論してこういうことを、後期高齢者でもそうです。

私は、後期高齢者の適用なく、何で健康保険料よりも後期高齢者の保険料が高いのということで、市役所に電話したことがあるんですよ。何て言われました?「ご老人ですから、病気にかかる率が多いです。だから保険料は当然高くなります」と言われました。だったら、「何で後期高齢者保険なんてつくるの。医療制度をつくるの」と言いたいよね。健康保険で十分間に合うじゃないですか。こんなことがいっぱいされているというのは、その裏は何かというと、さっきの原子力と一緒で、やはり財政が困難になってきた。何とかお金をつくりださなきゃいけない。

後は、国民から税金取れば使うのは勝手に使えるというのが、考え方としてあるんじゃないかと僕はいつも思っています。だから、いつも自分で思うのはそういうことですね。大変長くなりましたので、ちょっとはしょっていきます。

次は、指圧師の役割です。これは、私自身、指圧の先生にお世話になって治ったんで、非常に指圧に関心を持っています。これからの指圧は本当に前途揚々であるし、高齢者社会の真っただ中に入ってきますので、ますます指圧業界というのは、もっと活躍できる場があっていいんではないかというようなことを、私は常日頃考えていました。それでまず一つ。一般の医学界の現状を話します。これは、皆さんはそれこそ釈迦に説法だと思いますが、これも私の実話を交えながら話したいと思います。本来医療従事者と家族、患者、その三者がどういうふうに向き合うかということで、医学界というのはあるんじゃないかというのが、私の考えなんです。

あるときにちょっと頼まれまして、やはりこれも「先輩」なんで、「先輩は看護学校にいたけど、おれもうくたびれたから、おまえちょっとおれのかわりにやってくれない」と言うので、非常勤を押しつけられたことがあるんです。そのときにちょうど看護師のキャップをかぶる日にぶつかって、招待されて行ったのです。そのときに理事長である先生が、「これからの医学界は、今まではパラメンタルだった。つまり医者が強い権限を持つ、あるいは医者のほうが上位であった。これからの医学界は、パラメンタルから高メディカルにならなければ。つまり、患者も患者家族も医師も同等なんですよ。そういう時代になりましたので」という講演をされたんです。

そうかな。そのためにまたセカンドオピニオンという制度ができました。そしたら、日本ではそれを仲介する業者が出てきました。えっなんだっていうふうに思いました。皆さんそういう目に遭ったことはありますか。私はやっぱり家族で遭いました。セカンドオピニオンに。しかし日本の西洋医学の社会というのは、すごく閉鎖的だと思うんです。

まず、外国の場合は、セカンドオピニオンが順調にいっているというのはどういうことかというと、非常に受けられたほう、つまり一番初め、お世話になった先生ところに行きますね。それで、「私はちょっとセカンドオピニオン受けたいんですけど、先生よろしくお願いします」と言ったら、外国の先生は、「はい、わかりました」ということで、今まで全部治療していたデータをすぐ出してくれます。日本は、「ああでもない、こうでもない」と言うんです。

この一番いい例を一つ言います。私は、皆さんのおかげで立てるようになって、また今、腰を圧迫骨折しまして、ちょっと今杖をついているんですけれども、それがその指圧の先生のではなくて、整形外科に世話になったのです。いわゆる西洋医学でやらなければだめですので、それになったのですけど、そういうときに僕が一番初め、指圧の先生にお世話になったときは、家内がちょっと病気になって数カ月介護したことがあるんです。

それで、介護疲れでどうしても腰が曲がってしまって、西洋医学あるいは東洋医学、マッサージとか、いろいろとかかったのだけど、どうしても治らない。「治らない」というふうに言うと、どこの先生も「加齢ですから」ということです。つまり、「年寄りだから、もうこれは松岡さんね、曲がったままですよ」と言われたんですよ。曲がったままだって言って、ポイということはどういうことかなと思ったんで、「じゃあやめた」って、やめたんです。

そしたら、義理の姉がいて、義理の姉が指圧の先生にお世話になったので、僕に紹介してくれたんです。「その先生は、東洋医学と西洋医学にも興味があるみたいだから、行ってみたら」という話があって、そこを紹介されて行ったんです。それで初日、指圧をしていただきました。それで終わられました。終わったときに僕は、ふっと立ち上がったんです。びっくりしてその先生に、「先生、今までいろいろかかったけれど、骨の上をマッサージしたり、電気かけたりしていたんですが、先生は骨はさわりませんでしたね。どこをどうしたんですか」というふうに言ったときに言われたことが、すごくもっともなんです。

それは、「要するに骨というものは、筋肉の中に入っていますよね。だから、筋肉が疲弊してくると、老化してくると、筋肉が縮んでくるとそれによって骨もそのようになってしまうんです。したがって、筋肉をいかに和らげるか、回復させるか、元気にするかということが指圧なんですよ」と言われたときに、僕はなるほどって本当に、いつも何かかんかは疑うんですが、率直に受け入れました。

それで、町内を歩いたら、結構僕が立って歩いているもんですから、「松岡さん、どうしたんですか」と言ったので、「こうこうこういう先生がいる」と言ったら、結構皆さん方も興味を持って行かれたようですが、そういうことがあったのです。そういうことがあるので、私は、もっともっと今整形外科で行っていたときに、電気なんか当てているのを見ると、もっと指圧でかかったらいいなと思うことがあって、整形外科にはちょっと営業妨害になりましたけど、「僕はこうやって治したので、もし会ったらば、指圧の先生に相談してみたら」と言った人が何人かいるんです。

そういう意味では、ここから高齢化社会の時代になってくると、東洋医学というのは、まず、セカンドオピニオンのことを言うと嫌がります。まずそうですね、80%の医者が嫌がると思います。その最近の例で言いますと、僕は、毎年人間ドックを受けているんです。そこで実は、PSAと言って前立腺肥大の腫瘍があるんだそうですが、それが4という数字が出たから、どこかで精密検査をしてもらいなさいという話になったんです。ちょっとびっくりしちゃって、ホームドクターに聞いたものですから、血圧はホームドクターに診てもらっていますので、ホームドクターに紹介してもらって、横浜の赤十字病院に駆け込んだんです。

そうすると、赤十字病院でもう一つ発見したのは、あそこはすごい病院で良心的だなと思ったのは、即日結果が出るんです。普通の病院は、大概検査をして1週間後また来てくださいという営利目的が多いです。あそこの病院は1日で結果を出します。そのPSAの結果が3だったんです。それで僕は素人ですから、「先生、人間ドックで4なのに3というのは、どういうことなんですか」と言うと、「じゃあ、よかったらいいんじゃないんですか」と言ったんですが、私はちょっと信じきれなかったんです。そんなものかと。測り方によっては、4になったり3になったりということなので、それこそセカンドオピニオンじゃないですよ。その先生に、「もう1回測ってください」と言ったんです。すごく怒られました。「私を信用しないんですか」って。

だけどね、素人として4から3なるって、上がるのだったらわかるけど、下がるのは本当なのか、自分でやっぱりわらないです。僕は、そうはっきり言った。「先生を疑うわけじゃなくて、自分自身納得したいので、ぜひお願いします」と、さんざん粘りました。「そんなことないです。松岡さん、絶対間違いないですから、大丈夫です」と言われたんですが、粘りに粘って勝ちまして、「6月28日、じゃあ予約しましょう」ということで予約してもらったんです。そういうことだと思うんです。やっぱり日本の医者というのは、なかなか自分の主張を曲げないです。

だから、セカンドオピニオンって言ったときに、僕は、ここにも書いてあるんですけど、何で医者同士で、日本の医者は認めませんよね。だから、転院をすると、必ずむなしい検査をやるんです。初めから同じようにやるんです。ということは、僕は、今皆さん方に話します。西洋医学の先生方は、医者同士、相手の医者を信用していないんじゃないかと。一方ではあります。初めからやり直す。お金入るからやるというという先生もあります。僕はそうじゃなくて、こっちをとります。

外国の医者は、違う治療をしているわけです。もうこの先生のやった治療で治らない。あるいはここまで来たのです。だから、違うとなったら、データを見て、それで受け取ったほうも見るけれども、じゃあ違うことをやろうと。日本は違う。まともな人もやるんです。ということは、医者同士が信用していないというふうに僕は見ています。これは何だと。医者同士で信用していないというのは、言語道断だなと思います。だから、僕は今言った赤十字病院の先生が、「先生にお願いしているんですから別に疑っているわけではないですから、ぜひお願いします」とやっと納得してもらったんですが、そういうことなんです。

ですから、ここで言うのは相変わらず、西洋医学・医学会はまだまだ患者というのは、まな板に載ったコイだと僕は思います。ですから、私も母親とか姉がいろいろと医療従事者に、あえてわかりやすく言うといじめられたときに、不満を言いますよね。じゃあ僕が言ってくるよと言ったときに、彼らが異口同音に何て言ったかというと、「言わないでくれ」と言います。あるいは、「先生に言う」って言うでしょ。先生にまた変なことされたら大変だから。これが患者の心情です。だったらどうしなきゃいけないかという理屈から高メディカルになったなんていうのは、全くおかしな話になる。むしろ、そういう意味では、やはりもっともっと考え直していかなければいけない問題がいっぱいあるんじゃないかというふうに思います。

それで、私が今かかっている指圧の先生は、そういう意味では僕はこういう性格ですから、その先生ともいろいろなことを話すんです。そうするとやっぱり、先生と患者の間で信頼関係が生まれてくるんです。そうすると、病気は気だと言うじゃないですか。気持ちの問題も若干入ってきているんです。だから、今、整形外科の電気治療をやめて、指圧に変えてから腰は完全に治ったんですが、その先生が、松岡さん、もう治ったから来なくていいよと言われたときに、大変我々の年になると、ジムに行くか何かして健康を保つために体を鍛えています。そのときにその先生が、「僕は、そういうのは非常に苦手であれなものですから、先生にこの理論を追加されるように、肉体は滅びない」ということで、肉体を活性化してもらう意味では、ずっと一生先生のとこに通いますので、よろしくお願いしますということで、今ずっとまた通っています。

それで、特にその整形外科で電気を当てていましたけども、電気を当てたって結局うちに帰るまでに、もう電気が消えちゃうとまたこうなるんです、残念ながら。ところが、今、指圧の先生のところに1週間に1回行っていますけど、意外と持続するんです。それは、やっぱり全身的なこともあるんでしょうけども、電気を入れるところは本当に患部だけですから。だけども、指圧の場合は、先生に全身的にやっていただいてるから、僕はそういう意味ではジムに行かないですむから、非常に楽だと思っています。

だから、そういうことが僕は大切ではないかなというふうに思います。それともう一つは、指圧業界のことについて言うなら、もうちょっとうまく宣伝したらいいじゃないかと思います。ちょっと広報活動がまずいんじゃないか、不足しているんじゃないかという感じが僕はすごく思っています。その先生にも言ったんです。「うん」とは言うんですけども、なかなか実行してくれないんです。

そういう意味から言って、ここで言う指圧の先生の役割ということについて、最後になりました。これは、西洋医学の先生ので、僕は看護学校のときに、これを資料に使って、看護師の卵に言ったのは、患者のほうから、「先生こんな薬要りません」というふうに言わせるように、つまり先生が患者さんを診断したときに、そこにナースを置いておいて、ナースに大学ノートに先生の言ったことをとらせて、それで診察が終わったら、患者に持って帰らす。あれは、例えばデータとるときは、「こういうふうにデータを取りなさい」と言って患者さんにやらせて、それをまた持って帰ってきて、自分で自分の健康管理をしなさいということの指導をやったり、そういうことをやることによって自分がよくなったら、「もうこういう薬は、先生要らないんじゃないですか」と言うぐらいに、先生と患者が仲よくなったという事例があります。私はやっぱりそういうことが必要だろうと。ただ単にまな板に載ったコイになってはいけないというふうに思います。だけども、意外とそういう先生が多くて、威張っている先生が多過ぎる。

またある先生は、高齢者に生きる意欲をということで、元気よくリハビリ医師ということで、その先生は、お父さんを亡くしたと。闘病生活をした中で介護した苦労も描かれました。そして、文科系であって、大学を出たんですけれども、お父さんを亡くしてから自分で医者を志そうということで、医者になりました。それで、大学の医局に入ったんですけれども、そのときに、この先生が患者さんのおしめを取りかえたそうです。それを指導教授が見たとき、「おまえ、医者がそんなことやるべきじゃない。もっと医学本来の仕事をやらないと、将来出世しないぞ」と言われた。それに覇気をさせて、医局をやめて市政の病院に入るということで、この先生の考え方は、患者を孤独にさせずに、生きる意欲を持たせたい。

つまり、先ほど言ったように、ノートをつけさせる先生と一緒ですね。患者と会話することによって、いろんなことの話をする中で解け合っていく。そうして、やはり高齢者を励ましていく。その中でその元気を取り戻すということもあろうかと思います。だから今の僕は、途中まで治ってきているんですけども、電気療法をしているよりも、指圧の先生にかかってから、今1カ月足らずなんですけども、杖を外して歩く。杖を突きながら、途中で外すんです。そういうことができるようになったのは、僕はその指圧の先生のおかげだなというふうに思っています。

ですから、そういう意味では、もうちょっと我々の患者のほうに帰っていただいて考えていただきたい。最後のこの先生は、若い先生も持っているらしいのですが、若い先生に言う言葉としては、医療の基本である患者さんの訴えに十分に耳を傾けることの重要さを認識してもらいたい。患者さんたちもそのことを踏まえていい医者を見つける。病院を見つける基準を自ら持つ。どうでしょうかということを書いているのですが、私はそういうことは必要だろうと。私自身の経験から言っても、もっともだなというふうに思います。

それで、あとはちょっとお願いなんですが、ここに学校の先生方もいらっしゃる、あるいは皆さんいらっしゃると思いますから、実はこんなに立派な本を書いているんですね、皆さん方。「指圧研究会論文集」を指圧の先生にいただいたんです。読ませていただきました。そこで、さっきも言ったように、PRが不足しているなというのは、こういうことなんです。こんな立派な論文を、要するに指圧界だけが裏側へはみ出しているのではなくて、ここまでつくるんだったら、例えば勝手なことを言わせてもらいます。

私が大学の病院でゼミをやりました。ゼミは、3、4年と2年間やります。そこで卒業論文を書かせるわけです。だから、指圧専門学校というのをお持ちですから、その最後の卒業年度には奨励をつくって、それを積み重ねていって、10年ぐらいたったらこういうものをつくって、官公庁に出して認めてもらう。ここまで作っているんですから、そういうことをやられたらどうでしょうかと僕は思うんです。ここまでしてもったいないと思う。僕が教員だったら、あるいは経営者だったら、そういうことを考えます。せっかく皆さんみたいな優秀な技術を持っているのに、野に下ることはないと思います。皆さんはどういうふうにお考えでしょうかというふうに思います。

もう一つ付録でお願いです。これを指圧の先生にもらったんです。この中をちょっと読ませていただいたときに、すごくおもしろいなと思ったのは、付録があるんです。付録にあって、今の時代にすごくPRできるなと思っている方もいるんですが、千人の被曝人がいるということで、要するに玄米食の勧めというのがあるんです。この被曝した人が玄米食の食事をとることによって、要するに効果が出てくるということが書いてあるんです。こういうことが、ここだけの世界にするんじゃなくて、特に公のところでそういうお話をされる機会をできるだけ増やしていって、その奨励を重ねていくことによって、やはり社会に評価してもらうという運動を、もう続けてもいいんではないかなと思っています。

僕は、それを期待しますし、ぜひやってほしいと。そういうことになれば、もっと広がるんじゃないかという気がします。またさっきの話でセカンドオピニオンの話です。僕の高校時代の友達でばかなやつがいたんです。ペインクリニックに通いながら別のところで指圧を受けていたのです。そしたらその主治医に言ったんです。注射を打つときは治るんです。注射が効かなくなるとまた痛くなるんです。だから、「そんなことやっているよりも、指圧のほうがいいと思うよ」と僕は言ったんです。その主治医に言ったら、何て言ったと。「そんなことはだめだ」と言われたそうです。

それで、「結局そんなばか正直なことをおまえが言うからだめなんで、黙って行ってみてどっちが効くかすればいいじゃないか」。そう思いません?それは、だから、患者って結構まじめなんです。だから、嫌われたら困るから言うんだけど、僕はずるいです。そんなことしない。いいところ取りしかしません。そういうことをしたらいいなというふうに思います。

大変長くなりましたけれども、こんなようなことで皆さんと一緒に語られたことを非常に大切にしたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。

(司会)
先生、どうもありがとうございました。皆さん、もう一度盛大な拍手でお送りします。

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