行事のご報告
浪越和民理事長「父、浪越徳治郎を語る」〜同窓会 令和5年度 通常総会 記念講演録
令和5年度に開催された、日本指圧専門学校同窓会の総会。その記念講演は、浪越学園理事長・浪越和民先生にご登壇いただきました。
新しい伝通院前校舎が竣工してまもない頃、創立者であり、和民先生のお父さんである徳治郎先生のことを、そして学校の歴史を、臨場感たっぷりに語っていただきました。
新しい校舎ができて、3ヶ月
ただいま紹介いただきました浪越です。理事長になって22年になります。皆さんの力と、現在の教職員の協力によって、どうにか私は務めさせていただいています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
新会長大崎さん、ご就任おめでとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
では、私の挨拶といたしますが、この校舎は令和5年3月24日に引き渡されました。できてまだほやほやといいますか、3か月経つか経たないかですが、なかなかこの建物が近所の評判でありまして、「学校らしくない」、「旅館みたいだ」ということも言われました。
今日これから「浪越徳治郎を語る」と題しまして、これはイコール日本指圧専門学校の歴史を語るのと同じかと思います。私は父と違って話術がよくできませんので、どうぞ御勘弁ください。
では、これから始めさせていただきます。(拍手)
昭和28年。徳治郎先生、アメリカに渡る
一番私が印象に残ったのが、昭和28年に父と兄がアメリカへ渡ったときであります。それは昭和28年の9月で、私は中学3年のときでした。
その当時、アメリカへ行くなんていうことは大変、昭和28年はまだ日本もそれほどよくないときといいますか、ドルが360円の時代で、その360円もなかなか手に入らない、闇ドルを入手するほかなかったようなことを聞いております。
それで、父は何といっても、運の強い人でありました。アメリカへ渡るときも、最初はハワイまで行くのに、プロペラ機で行ったそうなのです。
ハワイへ着いたときにちょっと問題が起きまして。羽田から行くときに、お土産ではないけれども、ウイスキーをもらったんですね。それを今度は飛行機の中でおやじと兄がちびちびやっていたら、軍属の人が3人ぐらいの団体で来たらしいです。その1人の具合が悪くなっちゃって、そのウイスキーをちょっと分けてくれないかと。そうしたら、おやじは、それ1本あげると。
そうしているうちに、アメリカへ入国するときに、兄の徹が税関で引っかかりまして、胸に何か影が出ていると。そうしたら、そこへ通りかかったのはウイスキーをあげた軍属の人で、相当位の高い人だったらしいですね。そうしたら、「どうしてこうなっているんだ」といって、その方が交渉して、スムーズに入国できたようです。
繰り返しますが、うちの父はすごく運の強い人であり、また、人に好かれるようなことをした人間かと思っています。
道を切り開くコミュニケーション力
アメリカへ行って、兄をカイロプラクティックのパーマースクールに入学させ、自分は1人でニューヨークへ入っていった。後に私に言うには、日本人は声が小さい、何しろ声を大きくして過ごそうと。
まず、タクシーに乗ったら、名所を指して、「ここ、ここ。」と言えば、「オーライ」と言った。レストランに行ったら、メニューを持ってきても分からないので、レストランの中で食べている人のそばへ行って「これ」と言って注文した。
また、おもしろいことに、飲むことに関してはすぐ覚えちゃうんですね。ビールはビア、ウイスキーはそのときホワイトホースと。注文して、そして、楽しく飲んだようです。
その当時、ニューヨークで、中曽根康弘さんと一緒になったときがありました。だから中曽根康弘さんとも一緒に飲んだことがある。
そして、日本へ帰ってきたら、中曽根さんは「英語の堪能な浪越先生にあとは話してもらいます。」というようなことを、会合で言ったそうです。
ニューヨークでの出会い
そんなわけで、4か月ニューヨークへ行ったんですね。ニューヨークへ行ったきっかけというのは、指圧学院時代の卒業生のフクヤマケイさんが来校してくれて、その人の兄さんがニューヨークにいるということで、ぜひ会ってもらいたいと。
それで、ニューヨークの「MIYAKO」というすき焼き屋で父は大変お世話になった。フクヤマケイさんからキダさんという方を紹介されました。このキダさんがアメリカにおいて日本人で一番成功した人だということで会いたいと思ったようです。
キダさんは歯の技工士だった。歯の技工士で、20人ぐらい日本人スタッフがいたのだけど、日本人はやきもちやきで、1人の日本人をリーダーにしようとしたら、やきもちをやいて大変なことになったので、それからは日本人は使わないで、白人だけを使った。キダさんを称する人は、アメリカにおいて一番成功した人なのだけれども、日本人が嫌いなのだ。そう言われたんだけれども、キダさんに会うことにした。
そうしたら、フクヤマケイさんとその妹さんから、キダさんの写真をもらったのです。若いときの写真を見せてもらった。キダさんは「これは僕じゃない」とぽっと放り投げたら、ちょうど写真が裏返しになって、そこにはキダさんのサインがしてあった。それを見て、「これはおれのサインだ」と。
キダさんは「あなたはなぜアメリカへ来て指圧しているのだ。じゃあ指圧をぜひ受けたい」ということでキダさんに指圧を施した。
「ハイカラ」になった徳治郎先生
その当時、父はちょびひげを生やしてたんですね。ちょびひげは、ニューヨークでは身分の低い者しかやっていない。で、ひげを剃った。
また、歯が悪いんですね。四国から北海道へ移民で来て、北海道の山の中に住んだから、魚を食べることが少なく、カルシウムが不足してみんな歯が悪かった。そこで、総入れ歯にしちゃった。
そして、4か月後に帰ってきたときには見違える人間になっていた。着ているものも違っている。ひげがない。そして、歯はきれいだ。
マリリン・モンローと指圧
そして、その翌年、昭和29年にマリリン・モンローを指圧したということです。ハイカラになった人間がマリリン・モンローを7回も指圧したそうです。
そのとき治療代として2,000円もらったそうです。2,000円のほかに、息子がアメリカで金がかかるからといって5ドル紙幣をもらって、その5ドル紙幣にマリリン・モンローがサインをしてくれた。
そのお札を今度、兄貴に届けてもらいたいというので、国際俳優の早川雪洲さんに託して、アイオワ州のダベンポートにいる兄のところに届けてもらった。
そうしたら、その5ドル紙幣がみんなに見せている間になくなっちゃったんです。マリリン・モンローの5ドルの紙幣が出てきたら、これは浪越家のものだと。それはいまだに出てきませんが。
豪快な笑い
そんなことでアメリカへ行って、そして、見違えるようになって帰ってきた。
それから何年か経って、白山通りってこの下のほうに、詩人の草野心平が開いた「火の車」という飲み屋があります。
その「火の車」の板前さんで、橋本千代吉さんという人が『火の車板前帖』という本の中で草野心平さんというのは、酒に酔うと店のお客さんと必ず激論して、けんかになっちゃう。ただし、その中でけんかにならなかったのは、上のほうに住んでいる指圧の浪越徳治郎と書いていたんですね。
何でけんかにならないかと。浪越徳治郎は笑いで、豪快な笑いで相手にされなかった。客の中でけんかしなかったのは浪越徳治郎だけだというふうに書いてあったのです。
創立期〜学校らしくなった指圧学校
昭和30年、指圧が法律の中へ入りました。そうしましたら、その当時、井沢正先生という方がいて、「指圧が法律で認められたので学校を造りましょう」といって、昭和32年に日本指圧学校を開いたわけです。井沢正先生は、戦前は朝鮮で女学校の校長をされていました。
そのときはもう、半分が治療室で、半分を教室で、そこで勉強していた。畳の上で。そのとき、文京区役所が視察に来て、「これでは学校ではないです」と。
それから、隣に2階建ての校舎を建てて、学校が竣工になったのです。
その後、学校らしくしてくれたのが、石垣惟一先生。この先生のおかげで、寺子屋みたいな学校が、学校らしくなった。
そしてまた、学校を始めたときには、指圧は私で教えられるけれども、指圧と解剖学は違う。解剖の先生を探してこいと言われた。
そして私は、ある人に聞いて、フカツさんという人の息子さんが今、日本歯科大学で勉強していて、お母さんが事務局で働いている、その人を紹介する。その方に紹介してもらって解剖の先生に来てもらった。授業が6時から始まるので、その前に5時に来てもらって、夕食をしながら解剖の話を聞きたいということで、ある先生が見えた。
その先生は酒が飲めないんですね。そうすると、おやじはビールを飲んで。その先生は、これはおれには務まらないから、では、酒の、ビールの好きな先生といって、石塚寛先生を紹介してくれました。その先生が毎週来て、そして、講義が始まる前に、食事しながら解剖の話を聞いた。
その石塚先生に全ての講師の先生を紹介してくれるよう依頼した。ですから、石塚寛先生は本当に指圧学校の恩人です。その当時は、ほとんど講師の先生ばかりでした。そのかわり、解剖学と病理学、生理学というような専門の先生を呼んでいただいた。
何しろ、うちの父は、解剖と指圧は密接な関係があるから、これはどうしても専門家に教えてもらいたいと言っていた。
そういうわけで、寺子屋式の学校からだんだん学校らしくなっていった。
テレビで広がった指圧の知名度
そして、一番父が満足したのは、昭和43年のテレビ朝日の「桂小金治ショー」に出演したことです。
その当時は、生番組でテレビは白黒です。そして、1時間番組で、最初は7回の約束で入ったけれども、それがだんだん続いて、2年半続いた。
生番組なものですから、水曜日の12時から1時までがその番組で、指圧教室は12時45分から最後の15分間だけ持ちました。指圧教室が始まる前1分談義、それから指圧教室を始めた。
それは何といっても脚本がないので、浪越徳治郎は自分で原稿を書いて、それで自分でしゃべって。父は話術がうまかったことで、生番組に適していたようです。
そして、「アフタヌーンショー」というのは全国区なんですね。全国にネットワークを張っていて、それが2年半続いたことによって、指圧と浪越徳治郎は日本全国に浸透したわけですね。
それは昭和43年1月から始まって、約2年半続いた。
ベストセラー、選挙、そして「指圧一筋」へ
その43年には、この伝通院に5階建ての校舎も建ちました。
そして、その9月には、実業之日本社から『3分間指圧』という単行本が出ました。これは100万部のベストセラーになりました。
ですから、テレビで紹介されて、そして、単行本の『3分間指圧』が100万部出て、本当に指圧が評価されたというか、日本全国に知れ渡っていった。
おかげさまで、指圧学校の入学生も増えてきて、ほかのあん摩マッサージ指圧師の学校もそれで潤った。ですから、学校協会からも随分、浪越徳治郎は感謝をされました。
テレビの力というのはすごいものですね。その頃、白黒で、視聴率が20%というのはいまだに破られていないということで、テレビに出たことがすごく、指圧と浪越徳治郎を全国区にしていきました。
そして、そのおかげで、昭和49年に、参議院の全国区から出馬しました。だけど、このときは敗北になったわけです。
そうしたら、あるテレビ局が、出演を依頼したんですね。兄と私は父に「出るものじゃない。みっともないからやめて」と言ったんですが、父は「どうしても出たい」という。
その時テレビで言ったことは、「私はやはり指圧師だから、政治は政治家に任せて、私はこれから指圧一筋で行きたい」と、それをテレビを通じて宣言したんですね。そのことは一切、兄と私には言わないで、それで私は、おやじの信念を認識しました。これからは指圧一筋で行きますと。
人を喜ばせ、卒業生が喜んだテレビ出演
その後は、ビートたけしのテレビに出演し“ジェット浪越”で有名になりました。
何で有名になったかというと、おやじがジェットコースターに乗ったわけですね。そのジェットコースターに乗って、怖い顔をするのが視聴者にすごくウケた。
中でも、浅草の花やしきにあるジェットコースター、一番あれが怖かったんです。一番危なかったんですね。今にも壊れそうだ。あの花やしきのジェットコースターだけは怖かったという、顔がこわばっていた。
それは怖かったには違いないけど、そういう、テレビに出て人を喜ばせるのが、父の取り柄と言ってはおかしいけれど、愉快な父らしい話です。
浪越徳治郎がテレビに出る、相撲の土俵際で映ることによって、開業している卒業生の指圧師が必ず、浪越さんが映ると、往診の依頼が来る。ですから、卒業生は皆「先生、テレビに出てください。出ることによって、往診のお声がかかるから」ということで、自分も、テレビに出ることはやはりうれしかったんでしょうね。
53年の歴史ある校舎から、新しい校舎へ
当時の校舎は昭和43年にできたものですから53年間使ったわけです。
2年制から3年制になって、教室が足りなくなったので、お風呂とサウナ室をなくし、治療室を狭くして広げたわけですね。
その後も図書室とかいろんなものが足りないということで、今から10年前に12階建ての校舎が建ちました。
しかし、少し経つと、だんだん少子化になって、生徒の数が減ってきた。そろそろやはり、旧校舎の5階建ての校舎は処分しなければならない。
そのときは12階の校舎だけにしようという計画で、監督官庁に相談をしたら、12階建ての建物は借地だから、財産がなくなってしまう。これだと許可がおりない。そうなると、5階建てのところに学校を建てなければならない。それならばと思いまして、その決断を私はしました。
そうしましたら、12階建ての新校舎が売れまして、今現在の校舎を建てる用意ができました。
父の導き、再び 〜 伝通院前での歴史は続く
そう考えますと、北海道の、札幌から上京して、指圧を広めるために、この小石川の伝通院前に越してきたのは、ちょうど8回目の引っ越しの時なんですね。
私はその1年前に、文京区の大和郷(ヤマトムラ)というところで生まれた。大和郷というところへ何で越したかというと、7回目に引っ越ししたときに、お屋敷町でお金持ちばかりが住んでいるから、ここで開業したらいいだろうと。
ところが、大和郷の人たちは、昔からの療術師をちゃんと雇っていた。やはりここではいかんな。
それで、この伝通院にある、伝通院会館で、昔の海軍の方の講演を聞きに行って、伝通院のお墓を見て帰ったときに、この場所を見つけて、そして、ここへ越してきた。
ここが8回目の引越しで、僕はここからもう離れない。ここを指圧の聖地としたいというふうに考えたのです。
そして、今話したとおり、5階建ての校舎を売却することはできない。するとここにおるしかない。やはりこれは父が導いてくれたおかげかと思います。本日ここで同窓会の総会を開くことができました。
いろいろ考えますと、やはりここへ越してきたのは、また戻ってきたのは正解かなと思います。それでこうやって同窓会を盛大に開催して、私は大変感激しております。
このようないきさつがありましたので、今後とも、どうぞ、指圧学校を応援してくださるようお願いいたします。
これで私の講演を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)