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日本の指圧、世界の指圧(1)

2009/11/27 小野田茂(25期)

スペインでの指圧普及が丁度25年目を迎えるに当たり、ヨーロッパの指圧の未来展望を少々考えてみようと思います。

ヨーロッパでの壁

ヨーロッパでの指圧治療で最初に突き当たった壁は、ヨーロッパ人の治療における刺激量の加減が、まず第一番に上げられます。実際そのさじ加減には、長年悩まされました。極論を言えば、からだが全く日本人と異なるという事です。日本人は、東洋医学の歴史そのものをしみこませた身体を持っています。すなわち、何世紀にもわたって私達のご先祖様が、お灸、鍼、按摩とありとあらゆる刺激を身体に与えてきた結果、そのDNAが日本人の身体にしみ付いているということです。その点ヨーロッパ人は、治療において外部からの刺激に身体は、ほとんど免疫を持っていません。そんなわけで、治療における刺激量がぴったり合えば、奇跡的な回復を見せる患者さんに遭遇する事がたびたびあります。身体が指圧を受けることにより極端に反応しますので、ちょっと習った指圧でも良くなることが往々にあります。その辺を勘違いして勉強もしないで、ただ圧すだけのマッサージ屋さんがはびこり、そこそこに食っていける下地が、ヨーロッパにはたくさんあると言えます。

ヨーロッパの人にはメンケンが起こりやすいという事実があります。じゃあ、ヨーロッパの人には弱刺激すなわち弱い圧で治療するのが良いのかという、単純な疑問の回答を臨床を通じて探す事から始まりました。ヨーロッパで指圧を受けると、おさわりマッサージみたいで、どうも物足りないという日本人旅行者のコメントをたびたび耳にします。このような意見がその辺りの事情を物語っていると言えます。ヨーロッパ人のための指圧治療、その回答がスペインで食っていけるか、それとも尻をまくって日本に逃げ帰るかという、実に切羽詰まった、かつ真に現実に向き合っての、俗に言われる試練の場を切り抜ける事からスタートしたのでした。

初めに、どうしたら弱刺激であっても圧が身体に浸透するかという試行錯誤が始まりました。そんな葛藤の中から最初に、指圧の三原則である持続圧、集中、垂直圧、この単純な原則の中に含まれている濃縮エッセンスを搾り出す作業が始まりました。

鍼と同じ効果を持たせるために、

  1. 指圧における圧の角度、深さ、そして持続時間(押圧の時間)を、各ポイントにおいて治療を通して統計を取りました。
  2. 鍼の点に対して、指圧は面を重点におき、例えば、足の三里に鍼を置く効果と同じ効果を出すために、点の代わりに面としてとらえて同じ神経が支配する前脛骨筋に三線を想定してきめ細かく時間をかけて指圧をして、鍼と同様の効果を引き出すためのテクニックを作り出しました。
  3. 身体における虚実のバランス、上虚下実。習慣による後天における身体のバランスの虚実。そして、生まれつきによる、先天における身体のバランスの虚実。このバランスを、診断法として統計付けました。
  4. 主に右利きの人の、日常生活における身体の使い方のクセによって生ずる硬結の分布の統計付けをして診断法を確立しました。
  5. ツボが集中する関節付近の靭帯、及び腱のための指圧のテクニックを技術習得し、ストレッチングと手技のコンビネーションを治療の義務としました。

こんな事を試行錯誤しながら西洋人のための指圧を作り出してきました。まだまだ充分とはいえませんが、先のめどは付いてきたと言えます。ただ時代がその時の、そしてその社会を反映した病気を作りますので、指圧も自由自在にそしてバランスの取れた技を作り出していかなければならないということを痛いほど感じています。時代が病気を作る、その真実を謙虚に受け止めて、伝統を守りつつ新しい指圧を創作するパワーを持った若い指圧師が常に出てくる土壌を作り出さなければなりません。次世代の指圧師は、柔軟な頭を持ち、色々な方面からの知識を吸収して、バランスを持った、そして医者の世界が認め、彼らが協力を要請するような理論を確立しなければなりません。

日本の動き

次に、日本の指圧の動きを書き進めてまいりましょう。指圧の歴史を紐解くと決して平坦な道を歩いてきたとはいえません。始めに、前世紀の中ごろの日本における指圧法制化への道のりの話から始めましょう。明治、大正、昭和の初期まで、日本の手技療法は数多く存在して、全く無規制の状態で混在していました。

そんな時代においても、指圧は固有の主体性のある手技療法である、と浪越徳治郎先生は始終一貫主張しました。先生はこの目的を達成するため、いろいろな活動をされました。そのひとつにはマスメデイアの活用が挙げられます。自ら昼のテレビのワイドショー番組に出演して自らのキャラクターを全面に出し、指圧を解かりやすく、また自らが健康を管理することの重大さを自己指圧や各疾患のための重要なつぼを取り入れてユーモアたっぷりにトークし、日本人の頭に指圧という固有名詞を植えつけました。そして、その人気は絶頂に達したのでした。なかでも指圧が日本の国民を魅了した要因は、やはり先生の時代を読む本能的な勘があったからと思われます。

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そのいくつかを挙げると、

  1. 学びやすいように教え方を体系化した。
  2. 圧す場所と順序を数字で表した。
  3. 学ぶ人が基本の流れを早く覚え、基本の型を繰り返すことにより今までたくさんの時間を取り勉強した、腹部、背部、前面すなわち全身の操作が、より簡単に学べるようになった。
  4. 患者に危険と思われる手技を学習の過程の中から排除した。
  5. 現代解剖学、生理学など西洋医学に基づいた生徒のための勉強法を考案した。

このような当時としては、画期的な学習法が指圧に存在感と力を与え、徐々に、日本の厚生省に法制化を拒絶できなくさせました。1955年、念願の法制化が実現した裏には、数々の試行錯誤の歴史があったと言えます。

また一方では、古い東洋医学に根ざす施術師から多くの非難を受けたことも事実です。彼らは経絡経穴、五行などの昔からある東洋医学療法を無視しているといって真っ向から対決の姿勢をとりました。西洋の解剖学、生理学、病理学を使って近代指圧を発展させたこととのギャップが指圧の道を二つに分けました。その一方のグループの代表が、増永静人先生とそのお弟子さんたちでした。彼らには、新たな指圧の教育法から経絡を不要としたことが理解できませんでした。玉井天碧らの先達の書を土台にした増永先生の理論は、従来日本に存在した古来の手法にごく類似していました。後に、医王会という指圧の団体を旗揚げし、経絡指圧の普及を現在に至るまで続けております。この増永先生独自の指圧は、師匠に数人の弟子がついて言葉だけの説明ではなく、身を挺した教授を行ったことが学ぶ者に衝撃を与え、また実演で学んだことを自ら検証できることにより、アメリカ、ヨーロッパで禅指圧という名前で拡がっていきました。

徒弟制度は時間を要し、経絡経穴の研究は一人前のプロを育てていくことに時間がかかるという難問題を学校制度での教育という、まさに時代にマッチさせた方法と、指圧の一般化ではなく、指圧の職業としての位置付けにこだわった、両者の理論の違いが指圧の世界を二つに別けたわけであります。

(つづく)

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