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行事のご報告

平成27年度 通常総会・懇親会(新入会員歓迎会)記念講演 倉澤幸久先生

2016/5/7

日時 平成27年6月14日(日)
会場 リーガロイヤルホテル東京 2階

司会

それでは、定刻になりましたので、ただいまより記念講演を行っていただきます。本日は、「道元禅師と菩薩行」と題しまして、講師に桜美林大学国際学研究科の専任教授、倉澤幸久先生にお願いいたします。ここで、倉澤先生の御紹介をさせていただきます。それでは、鮎澤先生、どうぞよろしくお願いいたします。

先生は、長野県にお生まれになりました。東京大学文学部倫理学科、東京大学大学院修士課程、大阪大学大学院博士後期課程で学ばれました。専門は日本倫理思想です。文部省教科書調査官、桜美林大学助教授を経て、現在は桜美林大学の国際学研究科の専任教授をなさっておられます。著書に「道元思想の展開」などがあります。それでは、倉澤先生、よろしくお願いいたします。

(拍 手)

倉澤 幸久氏

御紹介にあずかりました倉澤です。本日は、このような立派な会にお招きいただきまして、どうもありがとうございます。

私は、倫理学の専門分野で禅宗の曹洞宗を日本に使えた道元禅師の思想を研究しております。倫理学というのは人間がいかに生きるべきかということを考えるものでして、道元禅師が世界をどのようなものとして捉え、その中で人がいかに生きるべきと考えたかということを中心にして研究をしているものです。そういう観点から今日は「道元禅師と菩薩行」という題でお話をしてみたいと思います。

今までの先生方はデジタルでちゃんとパワーポイントなどを使って見やすくお話があったかと思うんですが、私は余りそういうものを使いませんので、今日は紙で要旨を書いたものを御準備いただいております。見にくいかと思いますが、この紙の要旨を見ながらお話しさせていただきます。

このお話をいただきまして、浪越徳治郎先生の「指圧一代記」という御本をいただいたんですね。それを読みましたら、禅のお坊さんにとって座禅っていうのは欠かせないんですが、座禅をすると内臓を圧迫して癌になることもあるっていうようなお話がその本の中に書かれていまして、臨済宗の禅宗のお坊さん、高僧も肝臓が硬くなっていたのを治されたっていうお話がそこに出てくるんですけれど、座禅をするとそういう内臓を圧迫するとかそういうこともあり得るのかとか、ちょっとその点がおもしろいなと思ったんですけど、またいつかそのあたりもお教えいただけるといいかなとか思いました。

それで、今日お話しするのは、道元禅師と菩薩行なんですけれど、この紙の2番目のところで道元禅師について簡単にまとめたところがありますので、それをごらんいただきたいんですが、道元禅師は1200年から53年まで鎌倉時代の初めにいらした方で、禅宗の曹洞宗を中国から伝え、日本曹洞宗の開祖となられた方です。只管打坐、只管っていうのはただそれだけを、ただひたすら座禅をするっていうことを修行の方法としました。御自身厳しい修行をされ、弟子も厳しく教えた方です。ひたすら座禅をするっていうことと、ところが一方で、「正法眼蔵」という書物を90巻余り書き残されているんですね。それが仏教の教典であるとか、あるいは中国の禅宗の坊さんの言葉をもとにして、縦横無碍、自由自在に展開をしていまして、とても難解な書物とされています。それが今は岩波文庫に4冊本で入っておりますので、どなたもお読みいただける形になっているんですけれど、「正法眼蔵」を読み込んで、それを元にして考えるっていうことをしております。

そして、その次の項目に書きましたが、道元禅師の座禅はすなわち仏行であるとおっしゃっています。座禅というのは仏の行、仏の行い。座禅をそこで組んで座っていれば、そこで座っている人はそのまま仏になっていくということを言うんですね。ですから、座禅を強調した道元禅師については、道元禅師と仏行、仏の行ということで通常考えられるべきかと思うんですけれど、今日お話しするのは、道元禅師と菩薩行なんですね。菩薩というのは、これは大乗仏教の修行者です。まだ仏になる前の段階なんですね。仏になる前の段階の菩薩について道元禅師と菩薩行、菩薩の行いということでお話をさせていただきます。それは、道元禅師は晩年になって我々は菩薩であって仏ではないっていうことをわざわざ弟子たちに説いています。晩年になってわざわざ我々は仏ではなくって菩薩であるっていうことを強調するっていうことを考えてみたいということです。

次に、禅宗とは何かということをまず最初に御紹介したいと思います。禅宗は座禅を行うことを修行の中心とします。道元禅師は只管打坐っていうことを説いていまして、焼香、礼拝、念仏、修懺、これは懺悔のことですね、看経、お経を読む等の仏事は用いません。ひたすら座禅をしなさいと説きます。座禅を修行の中心とするのが禅宗ですね。

座禅は古代インドに起こっています。座禅によって釈迦仏は菩提樹の下で悟りを開いて目覚めた人、仏陀となったとされます。仏陀っていう言葉はインドの言葉です。漢字をインドの音を移して仏陀っていう字を当てるんですけれど、仏陀っていうのは目覚めた人という意味なんですね。釈迦牟尼仏も座禅をして仏陀、目覚めた人になったとされています。ですから、禅宗の座禅の修行は釈迦仏の修行をなぞるその身に釈迦仏の悟りを体現することを目指す仏教の宗派となります。

そして、禅宗の起源についての伝説があります。拈華微笑の故事っていうんですけれど、拈っていうのはつまむ、花をつまむ、拈華、微笑っていうのはほほ笑むことなんですけれど、釈迦仏がインドの霊山の会においてあるとき花を手につまんで弟子に示した。すると、弟子の摩訶迦葉だけがほほ笑んだ。そのとき釈迦仏から摩訶迦葉に正法眼蔵、涅槃妙心という無情の大いなる法が伝えられたと禅宗のほうでは述べます。道元禅師も「正法眼蔵」の中でこの故事を紹介しています。

「正法眼蔵」とは、正法は仏の正しい教法、眼は一切のものを映す、蔵は一切のものを包む。一切のものを明らかにし、包み込んでいる正しい教えという意味です。涅槃妙心とは、涅槃とは、もともとはインドの言葉でニルバーナっていう言葉がありまして、それを漢字で音を移してこの涅槃という漢字の表記になっているんですけれど、これは煩悩の火が吹き消された状態、悟りの境地に入った仏の安楽な姿を示します。妙心っていうのは口では言いがたい玄妙な心、仏の心です。正法眼蔵、仏の心が釈迦仏から摩訶迦葉に伝えられた。この正法眼蔵、涅槃妙心が拈華微笑という故事を通して釈迦仏から弟子の摩訶迦葉に伝えられた。それは、不立文字、経外別伝の法、文字に立てない、言葉で表現できない、教典などで文字によってその教えが説かれているもののほかに伝えられた先生から弟子へ以心伝心、心から心へ直接先生から弟子に面と向かって伝えられる面授。その後、摩訶迦葉から弟子へ、さらにその弟子へと、祖師から祖師へ面授で伝えられると。インドで28祖、28代までその法が伝えられました。そして、第28祖の菩提達磨がインドから中国へやってきました。そして、この菩提達磨は少林寺に住して、中国第2祖慧可に伝えました。中国ではその後臨済宗や曹洞宗の五家に分かれて盛んに行われました。

日本への伝来は栄西禅師が臨済宗を伝え、続いて道元禅師が曹洞宗を伝えています。臨済宗が鎌倉とか京都の有名な禅宗寺院はほとんど臨済宗なんですね。鎌倉幕府、室町幕府と密接な関係を持っていたのが臨済宗です。道元禅師の曹洞宗は東日本を中心に田舎に広がっています。私自身も長野県の上田出身なんですけれど、実家が曹洞宗の檀家でした。

道元禅師は初祖摩訶迦葉から数えて第51祖、51代目というふうに数えられて系譜がたどられています。しかし、以上は伝説でして、歴史的には中国に菩提達磨が527年ごろ到着して座禅の法を伝えたっていうことは歴史的事実としてよいと考えられています。ところが、それ以前のインドにおける系譜は後世中国でつくられた伝説とされています。今のような禅宗っていうのは中国でつくられたもので、禅宗は中国で大いに盛んとなって、北宋の時代以降は禅宗が支配的になりました。中国に合う形で仏教が中国的に展開をされて、禅宗として盛んに行われた。中国において新儒教といわれる朱子学、陽明学がありますけれど、朱子学は宗の時代、陽明学は明の時代に成立しますが、これらは禅宗の思想的影響を受けて儒教の新たな展開をします。ですから、禅宗が中国において大きな意味を持っていましたし、それから、日本に伝わってきて、鎌倉、室町を通じて、わび、さびとかお茶とかお花とか、能であるとか、庭園とか水墨画とか日本文化にさまざまな影響を与えた、それが禅宗です。

それで、続きまして、次に、道元禅師の生涯を簡単に見ておきたいと思います。2番のところです。道元禅師は1200年にお生まれになり、父親が内大臣久我通親、源通親、久我っていうのは村上天皇の王子が臣人になって大臣などの高い位についた貴族です。母親はさきの摂政関白松殿、藤原基房の娘、伊子とされています。最高級の貴族の出身とされているわけですね。最近の説では、父は通親の次男、通具、母は伊子の妹という説もあります。

1212年に比叡山に登り、天台宗を学び始める。翌年、14歳で出家。両親が相次いで早く亡くなって無常を感じたとも言われますが、明確な理由はわかってはいません。1217年、栄西の弟子明全の弟子になって、建仁寺で禅の修行を始めます。建仁寺は、これは栄西が建てた臨済宗のお寺でして、まずは臨済宗の修行を始められました。比叡山からわざわざおりて、その当時新しく伝わった中国直輸入の新しい禅宗を学ぼうとした。それは修行がきちんとできると思ったことによると思います。

そして、1223年、24歳のときに先生の明全御自身が中国に渡ってさらに座禅を学びたいとおっしゃる。それにつき従って中国に行くんですね。中国に到着した直後に典座との問答というのがあります。資料1のところにそれを出したんですけれど、道元禅師の生涯を追ったときに、エピソードとして道元禅師はどういう方でどういう問題で探求されていたのかを伺うよい資料と思いましたので、これは資料1として下に上げました。典座との問答というところを資料1、典座との問答をごらんください。阿育王山の老典座、食事係が船に日本のシイタケを買い出しに来る。初めて異国の名刹の老僧に出会った道元は、意気込んで教えをこうとする。その老典座はみずからの職を大切にしてすぐに帰ろうとする。道元は思わず問う。御老体はなぜ座禅弁道もせず、古人の話頭も見ないで他人の食事の用意などにそれほど力を注いでおられるのか、何かよいことがありますか。老典座はからからと笑って、外国の好人よ、あなたはまだ弁道の何たるか、文字の何たるかを知らないね。道元は慌てて問う。いかならんかこれ文字、いかならんかこれ弁道。老典座いわく、もし、問うところをさえ間違えなかったら、おのずとわかるようになろう。そのとき道元はいまだ何も理解できなかった。これは「典座教訓」という書物の中に、道元の書物の中に書かれています。後に御自分のお寺を開いた道元禅師が典座の職、お寺の食事係の職なんですけれど、それをおいてこれはとても重要な職であるということを教えて、この書物を書いています。

道元禅師は中国に留学をして座禅をして悟りを開きたいと願って、はやる心を持って中国に到着したんですね。そうしたら、寧波という南のほうの港なんですけれど、そのあたりには禅宗の有名な寺院が幾つかありまして、有名寺院の典座の職にある、かなりお年の方が日本の船に買い出しに来る。思わず座禅もしないで食事係なんかしていてもいいんですかって聞いちゃうんですね。座禅をすればそれによって何か悟りが得られる。特別な体験を得られる。食事をしていることって、これって自分が目指している悟りを得る座禅の修行とどういう関係があるんだろうか。率直にそれを聞いてしまった。その率直な態度に好感を持って、老僧はちゃんとしっかりやりなさいということを答えてくれた。その後も実はこの方とは縁があって、また出会うこともあったりするんですけれど、ここに一つ道元禅師の若き日の姿があらわれていますので紹介しました。

そして、中国には4年4カ月滞在をしまして、まず、天童山で臨済宗を学びました。ところが、それは合わなかったようでして、天童山をおりて径山とか天台山とか大梅山等、中国のあちこちの山をめぐることになります。そして、天台山万年寺の住持の夢に大梅法常、これは中国の唐の時代の禅宗の老師、祖師なんですけれど、その方が出現をして、そして外国の若者が尋ねてきたときには法を惜しむなと言われた。道元禅師はそこに行ってそのお話を聞いて、私のもとで法を継ぎますかと言われた。でも、まだ私にはその準備はできていませんと言って断る。さらに放浪を続ける。

その後、大梅山を訪れ、大梅法常に一枝の梅の花を授けられる夢を見た。これが資料2にありまして、これは次のところの資料2、大梅法常という資料をあげておきましたけれど、大梅法常という禅宗のお坊さんはかつて馬祖道一に参じて問う、いかならんかこれ仏、仏って何ですか。馬祖先生が言いました。即心是仏、心が仏だ。法常は言下に大悟、その言葉で大いに悟ってしまったんですね。そのまま大梅山の絶頂に上って人倫に交わらない。僧庵に独居し、松の実を食べハスの葉を衣とする。座禅弁道すること30余年、人事たえて見聞することなく、年歴全く覚えず、ただ、周りの山々が青くなったり黄色くなったりするのを見るだけである。このような大梅のあり方を道元は評する。思いやるには哀れむべき風霜であると。後にたまたま道に迷った僧によって発見され、出山を求められるが、詩を書いて断り、さらに山奥に移る。あるとき、師の馬祖はわざわざ僧を使わせて質問させる。和尚はかつて馬祖のところでどのような道理を得てそのままこの山に住むことになったのか。大梅いわく、即心是仏。僧は言う、近日は別のように教えておられます。どのように説くのか。非心非仏。心でもない、仏でもないと説かれています。あの老人はいつまでも人を惑乱し続けている。非心非仏でも何でもよいが、我はひたすら即心是仏だ。僧が帰って報告すると、馬祖が言った。梅子熟せり。これは「正法眼蔵」の行持、上の巻に出てくる話です。1の316というのは、岩波文庫の第1巻の316ページのところにあるということです。

大梅法常禅師と道元禅師は何か縁がありまして、しばしば夢を見る。夢の中で梅の花、一枝を授けられる。山にこもって30年修行をした人なんですね。道元禅師も後に越前に下って山深い永平寺を本拠地とするようになるんですけれど、一方で、常に人を逃れて山にこもる。自分の修行を純粋にいつまでも行っていくっていう方向。それと、でも、人とともに生きること、その間で道元禅師は生涯を過ごされていた。その2つのエピソードとして御紹介しました。

それで、1225年に天童山に戻ると、天童如浄禅師が新たに天童山の住職、老師になって入山されていました。天童如浄先生に会ったときに、一目見てこの方こそ自分の先生と思って師事することになります。ちょうどそのころに日本から一緒に行った明全先生は中国で病気でお亡くなりになるんですね。如浄の教えは、参禅は身心脱落なり、焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず只管に座して初めて、「正法眼蔵」行持、下の巻1の393。行為を示した。道元自身はこの教えに従い、見心脱落の体験をし、一生参学の大事を終えたというふうに道元自身が書かれています。座禅をしてある特別な体験、身心脱落の体験ということを道元禅師御自身はされているんですね。

1227年に帰国して建仁寺に戻り2年ほどとどまります。初めての著作「普勧坐禅儀」、あまねく座禅を勧める儀という書物を書きます。その後、建仁寺を出て、京都の郊外深草の極楽寺跡の安養院に移り、「弁道話」という入門書、道元の思想の全般にわたる入門書のような書物を書かれます。その後、深草極楽寺形跡に観音導利興聖宝林寺を開き、本格的に法を広め始めます。

10年間の興聖寺時代、その前半の5年間に「学道用心集」「典座教訓」「正法眼蔵随聞記」が書かれます。「正法眼蔵随聞記」は、これは道元禅師の言葉を弟子の懐奘が記録したものです。道元禅師の語られた言葉を記録したものなので、これは比較的わかりやすいんですね。道元について関心のある方は、まずこの「正法眼蔵随聞記」をお読みになるとよい入門になると思います。

後半の5年間に主著75巻本「正法眼蔵」前半部41巻が書かれます。

そして、1243年7月16日以降、突然京都深草の興聖寺を出て、7月末、越前に下るということがありました。なぜ突然京都から越前に下ったのか。その当時の比叡山の弾圧があったとされます。このあたりも歴史的事実は明らかにはなっていません。師、天童如浄に倣って、また、それから先ほどの大梅法常に倣って都を離れ純粋な法を守る道を選んだとも言えると思います。檀越の波多野義重が越前志比庄の地頭職にあったことの縁によって越前に下ります。檀越っていうのは旦那、後援者ですね。この波多野氏は鎌倉幕府の御家人で、今の小田急秦野あたりが本拠地の御家人だった方です。道元を応援していた方なんですね。

まず、古寺吉峰寺に寄る。これは本当に高い山の上です。翌年、寛元2年、大仏寺建立、大仏寺は寛元4年、永平寺と改称。永平寺の永平っていうのは、これは中国の年号です。中国に初めて仏法が伝わったのが後漢の永平10年、紀元後67年という伝説があります。永平寺、初めて仏法が伝わった年号を寺の名前にするについては、道元禅師は自分が日本に初めて真実の仏法を伝えるという意気込みがあったかと思います。

越前下向後、75巻本「正法眼蔵」の残りの34巻が選述されます。

そして、1247年8月、檀越、波多野義重の要請を受け、鎌倉へ教化の旅に出かける。北条時頼に法を説いたと伝えられるが、道元の教えは広まりませんでした。

1248年、永平寺に帰り、最後の5年間の活動が始まります。永平寺に帰ったときに説法をして、その中で自分の心を詩に読んでいるんですね。この半年間、私は鎌倉まで出かけていって、それは大虚に、空中に浮かんでいるようにとても孤独でした。今、永平寺に戻ってみると、山がとても喜んで私を迎えてくれています。私はもう一生この山を離れませんというような詩を読んでいるんですね。

道元禅師は54歳で亡くなられてしまう。若かったんですけれど、この最後の5年間で「正法眼蔵」を書き改め、また、新しい巻をつけ加えて全100巻を目指します。75巻本の最終巻の出家というのをまず書き改めて、第1巻、出家功徳とします。そして、道元の病没のため12巻で中絶をしてしまいます。それが12巻本「正法眼蔵」というものです。

1253年7月、病が進み、永平寺住職を懐奘に譲る。8月、波多野義重等の勧めに従い、療養のために京都へ行きます。生まれ故郷に戻ります。療養のためでしたけれど、8月28日に入滅、亡くなられた。

以上が道元禅師の生涯でした。

それで、次、3番目、仏とは何かっていうところに行きまして、道元禅師の「正法眼蔵」に基づいて仏とはいかなる存在か。道元禅師によると座禅を行うことによって仏を実現することができるとされています。

次に、資料3、「弁道話」において道元禅師が説明されている箇所を現代語訳にしてそこに上げました。もし人が短い時間でも座禅をするならば、この世界があまねく仏の世界となり、悟りの世界となる。いわゆる諸物はその喜びと輝きを増し、地獄から天までの六道に生きる世界のあらゆる命あるものは皆身心明浄となり解脱し、本来面目をあらわす。そのとき世界のあらゆる存在は正覚を悟り、さらに仏の身を使用して菩提樹下に座禅して説法する。これらの仏たちはさらに帰って親しくひそかに座禅人に救いの力を及ぼすので、座禅には確固として身心脱落し、従来の迷いに汚された知見思量を截断して、天真の仏法を悟り、世界のあらゆる場所に無数に存在する仏の道場の一つ一つにおいて仏事を行って、仏のところで生きる人に仏の法を説法する。このとき、この世界は仏の世界となり、この世界の土地、草木、石ころに至るまで仏事をなすので、それらの自然の風水の力を寿量して生きているこの世のあらゆる存在は、不思議な仏の力を受けて悟りを開き法を説く。それが次々に世界の周りの存在に波及していって、この世界全体が仏の世界として実現されることになる。まず、道元禅師は座禅をするとこういうことが起こるということで、以上のような説明をされているんですね。

その下に要点をまとめましたが、人が座禅をする。そうすると、この世界が仏の世界となり、その仏たちから不思議な力が返ってくる。座禅をしている人は仏となり、仏の働きを行う。その働きによって改めてこの世界の全てのものが仏となり、この世界全体が仏の世界として実現されるという不思議な出来事が起こる。座禅をするとそこに世界全体が仏の世界を実現する。このようなことが起こりますと道元禅師は書いています。

しかし、その続きのところで、そのことは人間の意識には知られないと言われているんですね。人間と仏は隔絶した関係にあります。人間は人間であって仏のあり方を人間の心では見ることができない。しかし、人が座禅をすると、こういう世界が仏の世界になり、その力を受けて座禅をしている人は仏を実現するということがそこに実現するんだと道元禅師は説かれている。

その次のところをごらんください。仏とは身心明浄となり、解脱し、本来面目をあらわす。正覚を悟る。そして、座禅する。説法をする。身心脱落し、従来の迷いにけがされた知見思量を截断して、天真の仏法を悟る存在。

今までの身心は脱落し、明浄、明らかに清く明浄になり、今までとは別のあり方をするものとなる。しかし、それが本来のあり方であるようなものになり、それが次々に周りに波及していくようなある働きを発して世界中をつなぎ一新するようなもの、あるいは働き。

さらに仏の力が及ぶと世界の草木、土地が大光明を放ち、深い妙法を説くことができる。こういう特別な不思議な世界があらわれるんだっていうことを一方で説いています。

そして、その次のところ、仏と人間は隔絶している。それら一切が人間の意識には知られない。人間の我々にはそこにただ座禅をしている人の姿を見るだけである。そこに不思議な仏の世界が実現し、仏の不思議な力が働いていることは知られないということがもう一方で言われるんですね。

それで次の点。道元禅師は如浄のもとで身心脱落の体験をして、如浄の印可、おまえは悟りを得たっていう許可を受け仏祖となりました。そのときの体験の中身が以上のような仏の世界の実現であったと思われます。それは一種の神秘体験としての証悟体験、悟り体験で、これは臨済宗のほうで見性の体験っていうことを言うんですけれど、これに相当するものと思われます。道元禅師もこのような仏のありさまを体験したことが出発点になっている。その不思議な体験の内容が以上のように語られていた。

臨済宗のほうは、この見性体験というのをとても重視しまして、公案という難問を使って、無理やりって言ったら語弊があるかもしれませんけれど、例えば両手の音はこういう音がありますけど、片手の声を聞いてこいとか、問題を出すんですね。老師のところに行って修行者があれこれ自分が考えたことを言う。全部否定されて、果ては殴られたり蹴飛ばされたり、何を言ってもみんな拒絶される。疑問の固まりになってもうどうしようもなくなって、それがパチンとはじけるときに悟りが開けるっていうことが臨済宗においては修行で行われていまして、見性体験をしなくては臨済宗では一人前の僧侶とは言えないと言われることがあるんですけれど、道元禅師自身もまずは臨済宗の修行でした。如浄禅師は曹洞宗だったんですけれど、御自身は見性体験をされた。しかし、曹洞宗はその後、必ずしも見性体験を絶対視しないことになるんですね。

座禅によって仏を実現するということには2つのあり方が考えられます。まず、1として、座禅は仏行であり、一時的にでも人が座禅をすればその人の意識にかかわらず、そこに仏の世界が実現して座禅人は仏となって仏の行を行じているというあり方。2として、座禅の功徳が積み重なった結果、証悟体験という特別な神秘体験を体験し、この世界が光に満ちた親密なつながりにより結ばれた世界、これこそが本来的な仏の世界であったんだと思われるような世界を見ることにより、座禅人が仏の境地に達したと実感すること。

道元禅師は2の証悟体験の実感に基づきながら人々に教えを説くときには、人が座禅をすれば、その人は仏となり、この世界を仏の世界として実現することになる。その人にそのことは知られないけれど、それが仏祖の目から見た真実であると説いたと私は解釈しています。

釈迦仏も達磨も証悟の後の悟りを開いた後も一生座禅をしていた。座禅っていうのは証悟へ至る手段ではない。日々行われる仏の行である。仏として日々生きるということは、時間があれば座禅をしなさい。座禅をし、説法をし、教えを説き、そして、その他の日々の行住坐臥も仏事をなすことと道元禅師は捉えて、特別な悟りの体験を修行の結果得ることはある。でも、それは一時的なものとして過ぎ去るものであって、それを得たことによって道元禅師自身はこの世界、仏の世界であることを実感されたんですけれど、でも、一般の人々に教えるときに、座禅をしなさい、そうすればそこに既に仏を実現します。仏の行うように日々生きていきなさい。そうすれば日々仏行を行っている、仏を行っているっていうことになりますという教えをまず道元禅師は説かれているというふうに私は解釈しています。

それで、次に4番、菩薩とは何かというところに行きます。道元禅師の主著「正法眼蔵」は75巻本プラス12巻本プラス5巻、これは75巻とか12巻の中に入らないでばらばらな形で伝わっている5巻がありまして、それを合わせた92巻が岩波文庫4冊におさめられています。最初、個別に書かれた各巻をある時点で「正法眼蔵」っていう総称を冠して編集されました。75巻本が47歳のとき永平寺で自集された第75巻、出家の巻を最終巻として成立しています。その後、鎌倉へ布教の旅に出かけ、失意のうちに永平寺に帰り、その後亡くなるまでの晩年5年間に12巻本が書かれました。

そして、この12巻本最後の巻、八大人覚という巻、亡くなる直前の書ですが、その奥書に弟子の懐奘が記しています。それまで書き続けてきた「正法眼蔵」の書巻を全て書き改め、そこへ新規の巻を加えて100巻とするという計画で始められたが、病のため中絶してしまった。

そして、この最晩年、5年間で書かれた12巻本では、それまでの75巻本とは違ったことが説かれています。12巻本の中で西天28祖、インドの28人の祖師、唐の6祖、中国の6祖、中国の6祖とわざわざ上げているのは、中国では6祖、慧能っていう方が禅宗の歴史ではとっても重要な方でして、「六祖壇経」という中国の禅宗の一番古典的な書物が6祖が説いたものとされていますし、その6祖のもとからさまざまな宗派に分かれて禅宗が活発になります。唐の6祖と及び初代祖師はこれ菩薩なり、仏にあらず。12巻本の発菩提心の中でこのように説いています。

ところが、75巻本では、中国の6祖慧能からさかのぼって過去七仏まで40祖であり、40仏であるというふうに書かれています。75巻本では仏祖として中国の禅宗の祖師たち、道元禅師に至るまでの祖師は仏であり祖である。仏祖とされていたんですけれど、12巻本では、祖は菩薩であって仏ではないとわざわざ言明されることになります。

菩薩というのは大乗仏教の修行者です。いまだ仏に達していない、仏を目指して修行の途上にある存在です。また、観音菩薩、文珠菩薩、普賢菩薩という大菩薩と言われる方々がいらっしゃって、この大菩薩は既に菩提、仏の悟りの知恵を成就しており、仏になってもよいのに、あえてこの世にとどまり修行をし続けているそういう存在です。菩薩は慈悲、利他を目指します。自分の利益、自分自身が修行をして目覚めた人になっていくことを目指すとともに、利他、他を利する、他を救う、慈悲と利他、両方がなくてはいけないというふうに菩薩については言われます。

小乗の修行者である声聞、縁覚は慈悲のみ、自分だけが悟りを開いて仏になっていく、その修行をしているのが小乗仏教、声聞、縁覚という小乗仏教の修行者は慈悲のみと大乗仏教からは批判されます。小乗仏教の人は小さな一人乗りの船に乗って仏の世界を目指してこいでいく。大乗仏教は大きな船に乗って、人々が仏の救いの力によって大きな乗り物によって念仏を唱えたり座禅をしたり題目を唱えたりさまざまなことによって救われることを説きます。

次の紙に行きまして、菩薩は上求菩提、下化衆生を行う存在とされます。上に菩提を求め、下に衆生をかす。みずからが仏になることを目指して修行するとともに、この世で迷いの生存に苦しんでいる人々を救う。この2つがセットになっているのが菩薩であると言われます。

衆生っていうのは生きとし生けるもの、命あるもの全て、とされます。六道輪廻をしている存在、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、この6つの世界で迷っている命あるもの、これは衆生ですね。

12巻本では「涅槃経」、これも代表的な大乗仏教の教典なんですけれど、「涅槃経」の言葉に、自未得度先度他という言葉があります。これが道元禅師によって説かれることになります。自未得度先度他、自分自身がいまだ渡ることを得る前に、先に他の人々を渡す。これが発菩提心であるとされる。引用なんですけれど、「正法眼蔵」の発菩提心という12巻本の発菩提心という巻に、菩提心を起こすというのは、自分がいまだ渡らない先に一切衆生を渡そうと発願し、営むことである。この心を起こしている人は、その姿形が見すぼらしくても、既に一切衆生の導師であると道元禅師は書かれています。

発菩提心っていうのは、菩提、仏の悟りの知恵を求める心を起こすことです。みずから仏になることを願うのが発菩提心です。しかし、まず、他を救うことを願うのでなくてはならないとここでされているわけです。発菩提心で、まず、最初に仏法に目覚め、その真理を求めたいっていう心を起こすこと。これは発心をする、心を起こす、生き方を転換することなんですね。世間のさまざまな富、名誉、そういうものを求めている生き方から転換をして、仏法の教えに引かれるようになって、発菩提心、発心をする、生き方を転換することなんですけれど、人が生まれながらの自然の生を生きる限り、自己中心的な物の見方、生き方を生きることになりますが、そのような自己の利益を図り、自己のよりよい生を求める生き方を転換して他者本意に生きるようになること。このことを道元禅師がわざわざ最後になって説く。一方で、自分自身のよりよい境地を求めて厳しい修行も一方で行っているんですね。一方で厳しい修行をします。自分自身をより高い、よりよいものにしていくこと。そして、でも自分自身だけがよくなって向こうへ救われるっていうのではなくて、先に他の人々を渡す。そういうことが晩年において強調されるようになるということです。

次、5番、菩薩として生きる。菩提心を起こした後は長い修行をしていくことになります。長い修行をして、ついに仏になることがある。しかし、みずからはついに仏にならないで、衆生を救済し続けるということもある。それはそれぞれの菩薩が何をよしとするかという心の願いによると道元禅師書かれています。発菩提心の後、気の遠くなるような長い時間にわたって修証を続けていくことになり、最後まで仏にならない菩薩もいるとすると、成仏は最終の目標としてあるとしても、直接目指されることではなくなります。成仏は大きな意味を持たないことになります。かえって発菩提心が大きな転換点となります。発菩提心を捨て、後はひたすら衆生を渡し、利益し続けていくということになります。この修行を利益するということは、修行に世間の利益を与えることではなくて、菩提心を起こすように共同することであるとされます。発菩提心の後、菩薩として修行者は菩提心を保持し、どうにかして一切の衆生に菩提心を起こさせ、仏道に引導しようと絶え間なく求めることをひたすら行っていく。菩薩により導かれ、菩提心を起こした衆生は、また一切衆生に菩提心を起こさせ、仏道に引導しようと努めることになります。

世間の利益から仏道の価値への転換を行い、しかもそれが具体的には自己の救いを求めるのではなく、他者の救いを求める努力として日々行ぜられる。このような生き方を人は菩提心を起こして選び取るべきであり、それはあらゆる人がこのような生き方に目覚めることを求めることであると考えられます。このような発菩提心と菩提心の行は仏果菩提、仏を成就して悟りを知恵を得ることに等しいと道元禅師は説かれています。仏もまた菩提心を行うとも言われます。

次のところに「正法眼蔵」からの引用を上げました。仏果菩提と発菩提心を比べれば、世界を焼き尽くす火と蛍の火ほどの違いがあるけれど、自未得度先度他の心を起こせば、既に初発心と仏果菩提は等しい。なぜならば、実は仏も仏として行うことは同じであり、衆生に菩提心を起こさせ仏道に引導しようとしているからである。その証拠は法華経如来寿量品の以下の一節に見出される。仏もまた常にみずからこのように念じる。どうにかして衆生が無情道に入り、速やかに仏心を成就しますように、これが仏のこの世に生きることである。仏の発心、修行、証果は皆このように菩提心を行うことである。

「法華経」という教典は大乗仏教の最も代表的な教典です。天台宗は「法華経」に基づく宗派なんですね。天台宗を純粋な形で取り戻すっていう日蓮宗は、「法華経」こそが救いの教典、何妙法蓮華経を唱えることになるんですけれど、道元禅師も「法華経」はとても重要な教典として使われています。

仏になって人々を救い続けていくことと、菩提心を起こして菩薩として人々を救い続けていくこと、それは結局は同じことになる。菩薩として菩薩行を行っていくことは既に仏と同じことを行っていると説かれるわけです。無常である我々の信心において永遠の仏の命を実現するということがさらに説かれます。我々の身心は刹那刹那に移り行く無常なる存在であり、我々の意思に反して業に引かれて生き刹那もとどまらない。刹那っていうのは、指をパチンとはじくその間に65の刹那、消滅がある。瞬間、瞬間、瞬間が65も短く切れて、この世が生まれては滅びる、消滅をすると言われます。仏教の考え方です。たとえ、発菩提心の道に我が身心を施すことを惜しんでも、結局我々の身心は無常なる存在として我有を全うすることはできない。このように、流転生死する身心をもって速やかに自未得度先度他の菩提心を起こすべきである。久遠の寿量、永遠の命、これが「法華経」で説かれることですね。

発菩提心に仏の存在が始まり、永劫の未来に向けて修行を続けていき、ついに仏になる、あるいは衆生を先に渡してみずからはついに仏にならない。これが最後に道元禅師が描いた仏道修行のあり方であった。菩提心を起こし、菩薩として菩薩行を行っていく。菩薩として生きる。このことを道元禅師は最後に説かれているということです。

それで、6番として、最後のところに、「正法眼蔵」菩提薩埵四摂法という「正法眼蔵」の一つ編を上げてみました。これは「正法眼蔵」菩提薩埵四摂法、菩提薩埵、これは菩薩の正式な呼び方が菩提薩埵です。菩提薩埵を略して菩薩といいます。菩提薩埵ももともとはインドのボーディサットバっていう言葉を漢字で音を写して菩提薩埵といいまして、ボーディサットバ、ボーディは悟りの真理、サットバは衆生なので、仏の真理を求める衆生、ボーディサットバ、菩薩ですね。菩薩の四摂法、4つの治める法、・・・・・治める、助ける、養う法ということで、菩薩のなすべきことを説いている「正法眼蔵」の1巻です。これは仁治4年、1243年5月5日に記録されていまして、後に75巻本が編集されたときにおさめられなかったんですね。75巻本におさめられなかったについては、この菩提薩埵四摂法には管子っていう中国の法家の古代の文献が引用されていましたり、必ずしも仏典だけではなくって、俗信向けの俗信の人たちの書物なども引用されて説かれています。「正法眼蔵」75巻本をまず編集するときには、これは俗信の故事が含まれているということで収録されなかったのかと思うんですが、なぜかはわかりません。

ここに具体的に菩薩のなすべきことが説かれていますので、最後に具体例としてどんなことを菩薩がなすべきかということを御紹介したいと思います。

4つの法っていうのは、布施、愛語、利行、同事という4つです。布施がまず施し与えること。むさぼらないこと。へつらわないこと。財を財に任せる。財にとらわれない。布施の因縁力っていうものがあって、布施をすればお金を施し与えることは因縁力となってその人を助けることになる。

一句一偈の法、自分が教えを受けた一句一偈の法を施し与えること。法を教えることも布施です。一銭一草の財、ごくわずかな一銭、それから、お寺を建てるために土一握り、草一握りを持ってきて寄附することも布施。船を置き橋を渡す。これは世間の中で船とか橋で川を渡るのに難儀をしている人々を助けることも布施です。

治生産業、治生、政治経済、経世済民の術、産業、世間の仕事。世間の仕事、社会の中で仕事をしていることによって人々を助ける、その仕事によって人々を助けることも布施に入ります。

花を風に任せ、鳥を時に任す。これも布施だって言うんですけれど、花が風に散っていく。人間は花が散るのを惜しむ、花散らないでほしい。もっと花が咲いていてほしいって思うんですけれど、花を風に任せる。桜の花が盛りを過ぎて風にさっと舞っていく。そのときに惜しいなって思わないで風に任せることも布施だって言うんですけど、かなり文学的な表現が入ってきたりしていますけれど、鳥を時に任すっていうのも、鳥はそのときに応じて鳴くんでしょうか。無理やり鳴かせたりするんじゃなくて、時に鳴くことに任せるも布施。

それから、みずから用いる。私自身に何かをあげる。父母妻子に与える。これも布施。自分を大切にすること。父母妻子を大切にすることも布施。

衆生の心地を転じはじめることも布施。衆生の心地を転じ始めるは、これは教えを説くことになると思うんですけれど。

次に、愛語。慈愛の言葉。衆生を見るにまず慈愛の心を起こし、顧愛の言語を施すこととされます。暴悪の言語がないこと。挨拶の言葉。挨拶をすることも愛語です。

慈念衆生、衆生を慈しみ思うこと。それがなお赤子のごとし。赤ちゃんを思うように衆生を慈しみ思う。その思いをもって言語する。

説くあるは褒め、徳なきは哀れむ。

怨敵を降伏し、君子を和睦ならしめる。

向かって愛語を聞くはおもてを喜ばしめ、心を楽しくする。向かわずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。

愛語は愛心より起こる。愛心は慈心を種子とする。

愛語よく廻天の力ある。慈しみの慈愛の言葉っていうのは、よく天を回転する力がある。

次、利行。他人のためになる行為。貴賤にかかわらず一切衆生において利益を与える工夫を凝らす。遠い、近い先を見通して、利他の方便を営む。

窮亀を哀れみ、病雀を養う。これは中国の古典に基づいて困っている亀を助けてあげる。傷ついているスズメを養って助けてあげる。亀もスズメも六道輪廻の畜生に迷っている存在。これを助けることも入っています。見返りを求めず、ただひとえに利行の心を起こす。自分の利、他人の利という思いを持たず、あまねく自他を利する。

怨親等しく利する。

草木、風水にも利行がおのずから不退、不転になる。ひとえに愚を救わんと営むなり。

「正法眼蔵」の中では文章として書かれているんですけれど、その文章で言われていることを要点としてこのようにまとめてみました。

同事。他人と協力すること。不違である。他人と違わないということ、不違である。自にも不違であり、他にも不違である。自分にもたがわない、他人にもたがわない。自分が本当によしとすることを偽らないで、それはきちんと追求することも入ってます。同事には自分にも不違である。他にも不違である。人間界の如来は人間界に同じることが一例である。如来が人間界にいらっしゃって人間を救済されるとき、人間界に同じることが一つの例である。

同事を知るとき、自他一如である。

海は水を辞さない徳を具足しているゆえに水が集まって海となり、大きなことをなす。山は土を辞さないゆえに山をなし、明主は人をいとわないゆえに国をなす。

ただまさにやわらかなる容顔をもて一切に向かうべきである。

このように具体的に菩薩が行うべきことが説かれている「正法眼蔵」の巻もあります。具体的な例として一つ最後に御紹介いたしました。

以上、これで時間になったかと思いますので、道元禅師と菩薩行ということでお話しさせていただきました。どうもありがとうございました。

(拍 手)

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